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18.

   五月三十一日(日)

 朝八時半にカオルの部屋の電話を五回鳴らす。しばらくするとぼくの電話が一回鳴る。やっと目鼻がついてきた原稿をそろえる。やかんを火にかける。伸びをする。昨日の雨がうそのようないい天気だ。梅雨入りを前に貴重な晴れ間。窓を開けて庭を見下ろすと、チリアヤメがポツポツ咲いている。そう、この花の時期が過ぎないうちにカメラを手に入れよう。チリアヤメだけじゃない、よく見ればピンクの花も咲いているし、そのとなりも・・・。ノックの音が。
「じゅーん。」
カオルが、まだ眠たそうな顔で入ってきた。
「まだおねむのようだね。」
「急いでひげ剃ってきた。ユトリロに会うのにひげが伸びてちゃマズイもんなー。オレにとって彼は・・・、じゅん、お湯が沸いてるよ。」
「ああ、そうだった。」
「ねえ、あの絵、完成したの。あとで見に来て。」
「おおっ、見る見る!」
カオルはぼくのベッドの上にちょこんと座った。
「カオル、カップスープ飲む?」
「飲む!」
マグカップにスープの粉末を入れ、お湯を注ぐ。これでもか、というくらい混ぜる。
「おまえ、調子はどうなのさ。」
「めまいは時々するんだけどね。明日医者に行くよ。」
「その方がいいな。トマト味とコーンとどっちがいい?」
「コーン。」
「そう言うと思った。どうぞ、ぼっちゃま。」
「さんきゅー。朝のスープもいいね。」
カオルはカップに鼻を近づけて匂いを楽しんでいる。
「もうすぐ始まるよ。つけておくね。」
ぼくはテレビのスイッチを入れた。
「じゅん、原稿は大丈夫?」
「ああ、もうなんとかなりそう。」
「じゅんは平気だよ。じゅんならなんとかなるもん。」
「そうかな。」
彼がいつも(根拠はないけれど)大丈夫だと言ってくれるのが、少なからずぼくの精神安定剤になっている。
「フレンチトーストでも作ろうかな。」
「え、そんなことできるの?」
「そんなことって、牛乳とたまごをパーッとやってこう・・・。」
「なんだかわからないけど、食べたい。」
「砂糖も入れるんだったっけ?」
「そうかな。甘いよね、少し。」
冷蔵庫から牛乳とたまごを取り出すと、カオルは横に来て覗き始めた。
「シナモンはないけど・・・。ぼっちゃま、テレビが始まりますぞ。」
「まだ二分くらいあります。たまご割ってあげる。」
ぼくがボウルを出すと、左手でたまごをコンコン、と割った。
「おっ、いいたまご。黄身がプリッとしてるねえ。」
「ぼっちゃまのおしりみたいです。」
「オレのおしり見たの?あ、ねえ今度銭湯に行ってみない?広い風呂に入りたいの。」
「銭湯か。オレ熱い風呂ってダメなんだけど。」
「じゅんにも弱点があったか。」
「あるよ、いっぱい。」
「じゅんがまだここに住む前にひとりで銭湯行ったことあるんだけどさ、大変だったんだよ、コンタクトレンズ落としちゃって。コンタクトを探すためのコンタクトが欲しいと思ったね。」
「はずしてから入ればいいのに。」
「はずしたらどこに蛇口があってどこに風呂があるのか見えないんです。」
「じゃあメガネで。」
「メガネは曇っちゃうでしょ?目がいい人にはわからないんだから。」
「目が悪いぼっちゃま、テレビが。」
「あ、始まった。」
カオルは慌ててテレビの前へ。
 ぼくが適当に作ったフレンチトーストを、カオルはユトリロを見ながら二枚食べた。ぼくも途中から一緒に座ってテレビを見た。カオルの絵は、ユトリロの『白の時代』のものに似ている。カオルの部屋に貼ってあるポスターの絵も出てきた。カオルは時々、うーん、とか、はあー、とか言いながら熱心に見入っていた。本編は四十五分間で終わり、そのあと十五分間は今開催されている美術展などの紹介と次回の予告があった。
「あー、疲れた。久しぶりにテレビ見たよ。ねえ、コーヒー飲みにこない?」
「行く!絵も見たいし。」
ぼくらは木製の階段を三階へと上がった。
 カオルの部屋に入ると、いつもの油絵の具のにおいがする。カオルはラジオをつけた。
「どれどれ。」
ぼくはまっすぐ絵の前へ。カオルはお湯を沸かしに。
「おー、いいねえ。空の色、明るくしたんだ。」
「そう。薄曇りにするとやっぱり全体が重たくなるから全部晴れさせちゃった。」
「見に来るたびに天気が変わってたもんね。晴れに落ち着いたワケね。」
「うん。」
漆喰の家並み、石畳を黒い犬がなんだかしあわせそうにトコトコ。空は潔い青。
「いいよ。なかなかナイスだよ。おまえの絵を見ると創作意欲がわいてくるよ。」
「これで完成だって決めたら気持ちが楽になったよ。」
カオルは挽いた豆をペーパーに入れている。
「なんかさあ、バイトしてるあいだずっとあの人のこと考えてた。」
「うーん、昨日ずっと近くで見てたからね。」
「市民センターで会ったとき、いつもと雰囲気全然違ったなあ。」
「女の人は髪型でずいぶん変わるよね。」
「オレさあ、あの人、好きなんだけどさ、肉体関係になりたいとかそういうんじゃないの。いや、そうなりたくないわけでもないけど、なんか、ただそばにいてくれたらいいなって。変かな。」
「変じゃないと思うよ。でもちょっと臆病になってるのかもね、恋愛に対して。」
「ハタチくらいのときとは違うね、確かに。」
コーヒーの粉に慎重にお湯を注ぎながら、彼は小さくため息をついた。
「でもカオル、好きな人がいるって楽しいだろ?」
「うん、なんかね。」
「この絵、彼女にも見せたいね。」
「んー、見せたいような見せたくないような。」
「どうして?こんなによくできたのに。」
「なんか、自分をさらけ出してるじゃない、こういうのって。」
「あ、それわかる。文章もそうだもん。でもこの絵はいいよ。おまえのいいトコが表れてるよ。繊細で素直そうな絵だよ。」
ぼくはカップをふたつカオルの前に並べる。サーバーに溜まる褐色の液体がもうすぐふたり分になる。その時、電話が鳴った。
「じゅん、出てくれる?手が離せない。」
ぼくは受話器を取る。
「立花・・・じゃなくて城石です。」
『じゅんなの?オレ。』
「まーちん、元気?」
『おまえらホント仲がいいな。夫婦みたい。』
「ばれたか。披露宴はまだなんだけどね。カオルはいるけど手が離せなくて、いや、もう離せるかも。」
『おまえでもいいんだけどさ、チケットが入ったのよ、土曜日の。四枚渡すから二枚は誰かにあげて。』
「いいの?」
『初回だからね。今もこれから練習なんだ。』
「そう。がんばってるね。」
『そっちに行く時間がないんだよ。だから地図と一緒に郵便で送るわ。明日出すから。』
「わかった。たのしみにしてるよ。カオルに代わろうか?」
カオルはこっちを見ながら、別にいいよ、という顔でコーヒーを飲んでいる。
『言っといてくれればいいよ。また電話する。』
「了解。喉、大事にしろよ。風邪ひかないようにさ。」
『ありがと。じゃあ。』
受話器を置く。カオルがカップを差し出す。
「さんきゅー。まーちんがチケット四枚送ってくれるって。」
「四枚?」
「二枚は誰かにあげてくれって。」
「誰かって・・・。じゅんの知り合いにあげたら?ラジオの人とか。」
「ねえ、ジュリアさんにあげるってのはどう?」
「えー、だって・・・。そういうの好きかどうか。」
「弟さんは好きそうじゃん。」
「・・・そうか、じゅんの番組を録音するくらいだもんね。」
「おまえ、傘返すんだろ?その時に渡せる。」
「えーっ!オレが渡すの?」
「そりゃそうだよ。いいじゃん、傘と一緒にハイって。」
「そんな簡単に言うけど。」
「簡単じゃん。で、いつ行く?」
「今日はバイト早いからダメ。明日は医者次第。」
「チケットもまだ持ってないしね。じゃあオレ今日カメラの物色に行ってこようかな。」
「あ、ついに買うの?」
「あれを撮りたいんだ。」
ぼくは窓から庭のチリアヤメを見下ろす。カオルも横に来てそうする。コーヒーを片手にふたりで庭をながめている。平和な日曜日だ。
 お昼少し前にアパートを出て、カオルと一緒に八王子駅までバスで行った。カオルはそのまま立川へ、ぼくは駅前にあるカメラ屋へ。カメラもあれだけ種類があると、どれがどういいのか悪いのかさっぱりわからない。かといって店員に訊く気もしない。とりあえず信用できそうなメーカーに決めて、そのメーカーの出しているカメラのカタログを見る。あまり機能が多すぎず、かといってあまりランクの低すぎないものを吟味し、ひとつのデジタルカメラに決めてみた。そのカメラについて一応説明を聞き、それを購入することにした。カメラは小さいのに、箱はやたら大きかった。

 アパートへ戻ると、まず庭へ行ってみた。確かにチリアヤメはしぼみ始めていた。まだ二時過ぎだというのに、もう。
「あら、じゅんくん。」
ヒジカタさんが来た。
「ああ、こんにちは。花を見せていただいてます。」
「そういえば昨日の、よかったわ。いろんなのが見られて。」
「そうでしたね。たのしかったです。」
「よく見ればうちにもいろいろあるのよ。じゅんくんの部屋からじゃあジャングルみたいで見えないでしょうけど、ここの奥とか。」
ヒジカタさんが木の枝をどけると、白いものが。
「それはなんですか?」
「シライトソウよ。きれいでしょ?」
「きれいですね。あ、そこにも。」
「これはクリンソウ。ねえ、昨日展示されてたスズムシソウもあるのよ。三月四月だったらもっといろいろ咲いてたのよ。」
「窓からは見たんですけど、もっと近くにくればよかったですね。あ、あの、今度花の写真を撮らせてもらっていいですか?」
「どうぞどうぞ。花もよろこぶわね。」
ヒジカタさんは鉢に出ていた雑草を取りながらそう言った。ぼくも手伝いたいところだが、雑草とそうでないものの区別がつかない。
「このところカオちゃんに会わないんだけど元気かしら?」
それがそうでもないんです、とは言いにくい。
「ええ・・・。あ、そうだ、絵が完成したんで今度ヒジカタさんにも見てもらいたいって言ってました。」
「まあそう。それはたのしみね。カオちゃんがいるときに行ってみるわ。」
 ヒジカタさんと別れて部屋に戻る。ディープ・パープルのCDをかける。デジタルカメラの箱を開ける。緩衝材の中からカメラと数本のコードが出てきた。取扱説明書を読まなくてはならない。(カオルなら泣きたくなる作業だ。)コード類は充電に使うものとパソコンやビデオに接続するためのものだった。パソコンもビデオもないぼくにどうしろって言うんだ。カメラの使い方は思いのほか難しくはなかった。説明書を片手に、そのへんにあるものを無意味に写してみる。無意味な写真を消去できるのがデジカメのいいところだ。撮っては消し、だいたい使い方がわかったところで、外のものを撮ってみようとドアを出た。そこへカオルが階段をのぼってきた。
「カオル!」
「じゅん、また早退してきちゃった。」
「どうした?めまいか。」
「うん、普通に立ってればいいんだけどさ、下を向くとね・・・。だから品出しができないの。それにまた幽体離脱した。」
「大丈夫か?寝たほうがいいんじゃないの?」
「今は平気。」
「貧血なのかな。ちゃんと食べてるか?」
「食べてるつもり。今日が日曜じゃなければ医者に行けるんだけど。」
「横になったほうがいいよ。」
「うん、そうする。じゅん、明日起こしてくれる?医者って九時から?」
「そうかな。」
「八時に電話して。」
「わかった。あんまり神経質になるなよ。」
「うん。」
三階へ行く後姿に元気はなかった。
by whitesnake-7 | 2007-12-13 07:07 | 16.~20.
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