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   五月二十日(水)

 いい天気だ。空が青い。何の本を買うというでもなく本屋に入る。しかし、何も買わないと決めているわけでもない。気に入ったものがありさえすれば読んでみてもいい。ちょっとキレイな挿絵が入っているのがいい。そうしているうち、目にとまった表紙があった。手にとって中を少々確かめさせていただく。こまかい字がぎっしり、難しい字がたっぷり、というのは遠慮したい。そう難しそうな文章ではなさそうだし、表紙の色合いがぼく好みである。この挿絵の感じなら、ながめるだけでもひまつぶしにはちょっと良さそうだ。購入。

 カオルとぼくは同じアパートに住んでいる。
カオルがいる部屋に通っているうちにこのアパートと大家さんの人柄の良さに惚れ込んで八王子に引っ越してきてから、もう三年になるだろう。ぼくは二階、カオルは三階の部屋である。
「カオル、起きてる?」
ぼくは小さめにノックする。もうお昼に近い時刻だけれど、カオルは朝が遅いから。
「起きてるよ、どうぞー。」
いつもの人なつこい声だ。木造の小学校のような廊下から、古い木のドアを開けてカオルの部屋へ入る。
「じゅん、いいタイミング。今コーヒーを淹れるトコだよ。飲むでしょ?」
ぼくはあからさまにうれしそうな顔をしてしまった。うん、とうなずいて。そして、彼のイーゼルの前へ行く。カオルの油絵。カオルの絵はぼくの心を明るく、やわらかくしてくれる。
「なんだか気に入ったブルーがでなくて。」
カオルはコーヒー豆のストックを取り出し、変なスプーンで量ってから手動のミルへ入れた。彼は左利きである。字を書くときだけは右で書いているが、絵は左手。
カオルの絵はいい。写実的すぎるものは苦手だし、かといって抽象的すぎてワケわかんないのも好きじゃないから。いつもぼくがそう言うと
「ありがと。そんなふうに言ってくれるのって、じゅんとヒジカタさんだけだよ。」
ヒジカタさん、というのは、ここのアパートの大家さんをしている七十代の女性で、一階の部屋で一人暮らしをしている。
透明感のある、深いブルーの空。建物の白い漆喰、赤茶と栗色のレンガ。それらを眺めていると、カオルが喫茶店をやりたかった夢を話し始める。丁寧にコーヒーを淹れながら。
「店にはオレの好きな音楽が流れててさあ、壁には絵が何枚か飾られてるの。」
サーバーの中のコーヒーがもう少しでふたり分の量になる。いつものようにぼくは棚の中から勝手にカップをふたつ取り出した。カオルはカップをお湯で温めてから、コーヒーを大切そうに注ぎ分けた。
「じゅんは原稿を仕上げに来るんでしょ?いつまでも窓際の席に座ってさ。」
そう言って片方のカップを差し出す。透き通ったブラウンの液体に天井の照明が揺れている。
「おまえの店はきっと居心地がいいから、締め切り前には席を予約しなくっちゃ。」
カオルは机の上からCDを選び出し、デッキにセットした。
「なつかしいだろ?このクリストファー・クロス。」
そうそう、彼はこの『WHAT AM I SUPPOSED TO BELIEBE』が好きだ。天使のようなクリストファーの声を聴きながら、カップを片手にカオルは窓辺へ行った。アパートの庭には最近植えられた木が風を受けていた。
「じゅん、行きたい店があるんだけどつきあってくれる?」
「いいよ。」
# by whitesnake-7 | 2007-12-30 07:07 | 1.~5.