カテゴリ:16.~20.( 5 )

16.

 カオルとぼくが市民センターに着いたのは九時七分だった。自動ドアを通って中に入ると、廊下の奥の方に人が集まっていた。
「あそこじゃない?」
「らしいね。」
ぼくらはその人だかりへ向かった。
「じゅん、オレたち平均年齢を下げちゃいそうだね。」
確かにその集団はぼくらより年齢が上の人が多かった。そこへ行ってみると、人だかりは入口付近で立ち話をしている関係者らしく、部屋の中にはまだそれ程人はいなかった。時間が早いせいだろう。その中でも、瞬間に目に留まったものがあった。小さな赤いカバン。ジュリアさんだ。長い髪を下ろしていた。バスから見かけたときと同じ。
「カオル、あそこ。」
「・・・あ。」
植木鉢が並んだ長いテーブルの前で白髪の男性と話している。楽しそうな笑顔。
「挨拶するんだろ?」
「う、うん。」
ぼくはカオルの背中を軽く押した。
「じゅん、あれ、藤村俊二じゃない?」
ジュリアさんと話しているのは、E-CAFEで見かけたあの老紳士だった。
「ほんとだ。」
ぼくらは遠慮がちにふたりに近づいた。声をかけようとした時、老紳士がチラ、とこちらに振り向いた。それにつられてジュリアさんもぼくらに気が付いた。
「あら、じゅんくんとカオルくん。もう来てくれたのね、おはよう。」
「おはようございます。」
カオルとぼくはきれいなユニゾンで挨拶した。
「こちらがE-CAFEのオーナーなの。」
「えっ?」
藤村俊二が、いや、藤村俊二似のその男性がオーナーだったのだと知って、ぼくらはちょっと驚いた。
「よろしく。今日は来て下さってありがとう。」
落ち着いた低い声でそう言った。ぼくらはぎこちなく会釈をする。
「これがオーナーの育てたクマガイソウと、こっちがユキモチソウ。」
ジュリアさんの指した鉢を見ると、不思議な形態をした植物が生えていた。
「わー、オレこんなの見たことない。」
カオルがそう言って花に顔を近づけた。クマガイソウは扇子のような葉で、袋がぶら下がったような奇妙な花が付いている。ユキモチソウというのは、メガホンの中にきりたんぽを差し込んだようなモノだった。(なんて貧しい表現力だろう・・・。)
「花屋でこんなの見たことないです。」
カオルがそう言うとオーナーは笑みを浮かべて、これはね、と花の説明を始めた。どんな場所に生えているのか、どんな土を好むのかなど、ぼくらが聞いてもよくわからない話だったが彼は要領よく話した。
「オーナー、私もう行かなくちゃ。一通り拝見しましたし。ありがとうございました。」
ジュリアさんがそう言ったので、カオルが寂しそうな顔をした。じゃあぼくらも、と言うにはまだ早すぎた。
「あの、あとで行きますから。」
ぼくが言うと、ジュリアさんはにっこりうなずいた。
「あ、そうだ、じゅんくん。」
「はい?」
「違ったらごめんなさいね、じゅんくんってもしかして立花潤くん?」
ジュリアさんに見上げられて、一瞬ドキッとした。ファンです、とか言われたらカオルにどういう顔をしたらいいだろう、いや、それは別に悪いことではないか、そんな事が頭の中を駆け巡ったが、違うと答える気は起こらなかった。嘘は好きではない。
「そ、そうです。」
彼女は明るい笑顔になった。
「やっぱりそうなのね。声を聞いてそうじゃないかと思ってたの。」
声を聞いて、ということはラジオでの立花潤を知っているということだ。
「あなたの番組ね、よく聴くのよ。弟が教えてくれたの、この人八王子の人だよって。店が休みのときと、弟が録音したMDを聴くの。じゅんくんの話し方、好きよ。声も。」
じゅんくんの話し方、好きよ・・・心の奥にこだました。やわらかい響き。
「ありがとうございます、はずかしいな。」
カオルの方をチラッと見ると、彼はオーナーの説明攻撃にあっているところだった。
「八王子も広いのに、お会いできてうれしいわ。ごめんなさいね、驚かせて。」
「いえ。弟さんによろしく。」
「ありがとう。店でお待ちしてるわ。じゃあお先に。」
彼女は風のように出て行った。ぼくをよそに、オーナーはカオルに話し続けていた。
「これは三雲さんのスズムシソウ。スズムシにそっくりな花でしょう?」
しばらく彼の説明とともに会場を歩いていると、後ろから声がした。
「小野寺さん。」
それは花崎さんだった。オーナーが『小野寺さん』だということに今更ながらびっくりして(オノデラ・シェフのおじいさんだからそうであっても当然なのに)、花崎さんが彼と知り合いだったことにも驚いた。
「君たちも来てたの。」
「はい、おはようございます。あ、ヒジカタさんも。」
「おはよう。」
ぼくらはそれぞれ挨拶を交わした。オーナーが花崎さんとヒジカタさんと三人で話し始めたので、ぼくらは軽く会釈をして少し離れた。
「カオル、勉強になったの?」
「うん、でも一度にたくさん覚えきれないよ。ねえ、イカリソウって、船のイカリに似てるからそう言うんだって。」
「ほんとだ。初めて見た。カルチャー・ショックを受けるなあ。」
「見て、色も形もいろいろあるよ。」
「白もいいねえ。」
「わー、シブい色。シュンランだって。・・・ねえ、ジュリアさんなんだって?」
やっぱり気にしてるか。
「うん、『立ち話』たまに聴いてくれてるって。」
「それだけ?」
「弟さんがMDに録音してるんだって。」
「ふうん。オレと同じじゃん。サインくれとか言わなかったの?」
「言わないよ。」
「なんだ。せっかく本物の立花潤に会ったのになあ。」
「オレ、サインなんてないもん。」
「ねえ、どうして店で何度も会ってるのに今まで訊かなかったんだと思う?」
「さあ。」
「店ではお客様だからだよ。ここでは対等な関係でしょ?プロ意識なんじゃないかなあ、あの人のそういうトコ好きだな。」
「おまえ、よくそういうことに気が付くんだね。」
「髪、長いんだね。びっくりした。キレイだったなー。」
カオルはミスミソウを凝視しつつも、ジュリアさんのことに浸っているようだった。
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by whitesnake-7 | 2007-12-15 07:07 | 16.~20.

17.

 真鍮の取っ手を引くと、ベルがチリンと鳴る。
「いらっしゃいませ。」
期待通りの明るい声と笑顔が迎えてくれる。さっきと違うのは黒いエプロンと、うしろにまとめた髪。ぼくらは会釈をしてから店内を見渡す。土曜日だからか、もう結構混んでいる。
「カオル、カウンターに座ってみない?」
「えっ、でも。」
「接近のチャンスだよ。」
ふたりでモジモジしていると、うしろでチリンとベルが鳴って次の客が入ってきた。その音に背中を押されるようにぼくらはカウンターへ進んだ。
「いらっしゃいませ。」
ジュリアさんの声が心地よく響く。
「ここ、いいですか?」
カオルが控え目にたずねる。
「もちろん、どうぞ。さっきはありがとう。」
「いえ、楽しかったです。いや、その、珍しいものが見られてよかったです。」
その話しぶりでカオルの緊張が伝わってくる。
「ふたりとも山草展に来てくださったのよ。」
ジュリアさんはオノデラ・シェフに向かってそう言った。
「あ、それはありがとうございます。」
低い声で言うと彼は軽く頭を下げた。太いシルバーのネックレスが揺れた。
「ランチふたつと、今日はEブレンド。じゅんは?」
「ぼくもブレンドを下さい。」
「おふたりともランチとEブレンドね。」
ジュリアさんは水のグラスをカウンターごしにぼくらの前に置くと、伝票を書いてオノデラ・シェフの前に出した。
「今日はハンバーグ・ステーキよ。小野寺くんのハンバーグはふわっとしておいしいの。」
にこにこしながらカオルとぼくを交互に見てそう言ってから、水のグラスを三つ持って他の席へとすばやく歩いていった。オノデラ・シェフは冷蔵庫から何かを取り出したり鍋の中を確かめたり、その動作は機敏で無駄がなかった。思わず見とれていたが、彼は忙しそうなので目が合うことはなかった。
「じゅん、朝なに食べた?」
カオルはグラスを左手にそう言った。
「えーと、なんだっけ。ああ、カロリーメイト。」
「オレもそういうやつ。ああ、腹へったー。」
水を飲んで、グラスの氷をくるっとさせている。ジュリアさんが戻ってきた。
「小野寺くん、ランチもうひとつね。」
「OK。」
ジュリアさんは冷蔵庫を開けてボウルを、棚から皿を出した。手際よくレタスを置き、その上にポテトサラダを盛り付ける。スープをカップに注ぎ、カオルとぼくの前にフォークとスプーンをきれいに並べると、お待たせしました、と言ってスープとサラダをそれぞれ置いた。
「いただきます。」
ぼくらが言うと彼女はまたにっこりしてから、もうひとつのスープとサラダを手に他の席へ行った。ドアのベルが鳴り、いらっしゃいませ、が聞こえた。
「忙しそうだね。」
ぼくらは横に並んで同じようにスープを飲んだ。貝の入ったあっさりしたスープ。
「うまい、これ。空腹にしみるー。」
カオルがそう言うと、オノデラ・シェフがチラと一瞬彼に視線を向けたが、カオルは気が付かなかったようだった。
「カオル、今日また夢を見たんだ。」
「え、またあの?それじゃあオレ、バイトに行かない方がいい?」
「ううん、今日のはいい夢だったんだ。初めてだよ、ああいうの。」
「ハッピーなやつだったの?」
「ハッピー?・・・そう、ハッピーだった。」
「よかった。」
ジュリアさんが戻ってきて、水を持つとまたすぐに消えた。
「じゅん、カメラ買うの?」
「ああ、そうだね。欲しいな。」
「さっきの花、撮りたかったなあ。あのヘンな、と言ったら失礼だけど・・・。」
「不思議なのいっぱいあったよね。」
オノデラ・シェフが盛り付けをしているとジュリアさんが戻ってきた。
「小野寺くん、もうふたつお願い。」
「OK。」
ジュリアさんは棚からソーサーをたくさん出して、カウンターの上にコーヒーカップを次々と並べた。彼女はすばやくコーヒーの準備やレジをこなした。彼女がコーヒー豆を挽くと、すばらしい香りがあたりに立ち込めた。ふたり分のコーヒーをふたつのカップにきれいに注ぎ分け、それを持つとすばやく去って行った。カオルとポテトサラダの作り方について話していたらジュリアさんが両手にカップとグラスをたくさん持って舞い戻ってきた。
「見ていると手伝いたくなる。」
「カオルはファミレスにいたからなあ。」
彼女はオノデラ・シェフの作った料理をカオルとぼくの前に静かに並べた。
「お待たせしました。」
おいしそうなハンバーグ・ステーキに、彩りの良い野菜が添えてある。パンはトーストしたばかりでキツネ色だ。
「おいしそう。」
カオルがジュリアさんの顔を見て言った。
「おいしいわよ、どうぞ。スープのカップはお下げしていいかしら。」
「はい。」
ずっと見ているうちに、ジュリアさんの雰囲気が母親のそれに似ていることに気付いた。彼女は冷蔵庫からケーキをひとつ出すと、もうひとつのランチと一緒に持って去った。今度はオノデラ・シェフがサラダを盛り付けている。料理はシェフ、コーヒーはジュリアさんで、手の空いているほうがサラダも、というふうになっているらしい。ジュリアさんが戻ってきて、シェフの盛り付けたサラダとスープを持って行き、戻ってきてコーヒー豆を挽き、淹れる。とてもめまぐるしく、それでも手際よく動き回る。
「ハンバーグ、おいしいです、とっても。」
「ありがとう。よかったわ。」
コーヒーを淹れる間も笑顔で楽しそうだ。数個のカップにコーヒーを注ぎ、ふたつをぼくたちの前へ置いた。
「お待たせしました。」
「大変そうですね。」
ぼくは思わずそう言った。
「そうね、でもうれしいわ。たくさんいらして下さって。いろんな人にお会いできるしね。」
言いながらも手は動いている。三つのカップを持ってまた他のテーブルへ。シェフはフライパンを動かしているようだ。いいコンビネーションだな、と思った。
「じゅん、ヒジカタさんたちどうしたかなあ。」
「まだいるかなあ。」
「花崎さんがあの人と知り合いだったとはね。」
「うん。同じ趣味で話が合うだろうね。」
ジュリアさんがスープカップを持って戻ってきた。
「小野寺くん、香田さんが今日のはこの前よりおいしいって。」
シェフは返事をせず、満足げにうんうんとうなずいた。ジュリアさんは最後のカップにコーヒーを淹れて、氷を入れたグラスにオレンジジュースを注いだ。シェフがカウンターの上に料理とパンの皿をふたり分置く。ジュリアさんはそれらを二回に分けて運んだ。
「やっとひと区切りだわ。」
戻ってきた彼女は自分用らしい小さなグラスに水を注いで、少し飲んだ。
「一服してくる。」
シェフはカウンターの奥の扉から出て行った。
「ごめんなさいね、落ち着かないでしょう?」
ジュリアさんはぼくらの顔を見た。
「いえ、平気です。」
彼女は食器を洗い始めた。
「おふたりは車で?」
「いえ、バスで。ぼくは免許持ってないんです。じゅんは免許持ってるけど車がないの。」
「ぼくは原付で用が足りちゃうんで。」
「そう。デートはやっぱりバスとか電車?」
そう言われてカオルがぼくの方を向いた。ぼくにどうしろって?
「あの、デートは相手がいないと必要がないんで・・・。」
「あら、こんなかわいいんだもの、ふたりとももてるでしょう?」
「いえ、そんなことないです。」
カオルは照れくさそうにうつむいてパンをちぎった。ごちそうさん、と男性のふたり連れが来たので、ジュリアさんは手を拭いてレジへ。会計を済ませ、ありがとうございました、と言うとそのままテーブルを片付けに行った。
「カオル、告白しなくていいの?」
「え、そ、そんなんじゃないもん。」
「そんなんじゃなくて、どんなの?」
「どんなのって、じゅんだってあの人のことずっと見てるじゃん。」
そう言われて、ドキンとした。
「じゅんだってジュリアさん気になるでしょ?」
「いや、オレのはカオルとは違うよ。」
「どう違うの?」
「オレはほら、なんていうか、母親の面影を感じているというか・・・。」
「それ。そういうのから恋が始まるんだってば。」
「それはおまえの場合だろ?」
「オレは恋っていうか、ただ、その、友達になれたらいいなーって。」
「友達か。そうだね、いいかもね。」
ジュリアさんが戻ってきた。
「また雨降りそうね。」
「え、マジで?オレ、傘持ってないや。」
カオルは後ろを振り返りながらそう言った。ぼくも振り返って外の様子を見た。
「オレはこのまま帰るからまだ大丈夫そうだけど、おまえは帰りまでに降られるな。」
「カオルくん、遅くなるの?」
「これから立川にバイトに行くんです。」
「傘、一本なら貸してあげられるわ。」
「え、そんな、いいです、バイト先に置き傘がありますから。」
「でも、行くまでに降りそうよ。」
「ジュリアさんがそう言ってくれてるんだから貸してもらえよ。また来た時に返せば。」
「そうよ、私のはあるからいつでもいいわ。」
オノデラ・シェフが戻ってきた。
「ちょっと待っててね。」
ジュリアさんは扉の向こうへ消え、すぐに戻って来た。
「これなら男の子でも使えるわよ。」
カオルに折りたたみ傘を手渡す。グリーングレーの傘だった。
「すいません、お借りします。ありがとう。」
「気にしないでね。」
いつものようににっこり笑った。ふたりの様子を見ていたら、なにか安らぎのようなものを感じた。胸の奥がキュンとするような。なんだか、このままずっとここにこうしていられたら、と思った。

 カオルと別れてから本屋へ行った。どうしても気になっていた。あの表紙を確かめなくては。自動ドアを入って行く。義務的な声が、いらっしゃいませ、と聞こえる。あの本があった場所へ行ってみたが見当たらない。この間はここに山積みになっていたのだから、少なくとも数冊は残っているはずだ。丹念に書棚を探してみる。一度見たところをもう一度見てみる。ない。どうして?全部売れたのか。売れなくて返品されてしまったのだろうか。なぜか店員に訊いてみようという気にはなれなかった。客の間を通り抜けて、出口へ向かった。部屋に帰ったらあの本が消えてしまっているのではないかという気がした。
 本屋を出ると小雨が降り始めていた。急いでバスに乗り、バス停から小走りにアパートへ戻った。それほどぬれずに済んだ。カオルは電車に乗っている頃だろう。
 部屋に入り、真っ先にあの本の存在を確かめた。本は机上に横たわっている。
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by whitesnake-7 | 2007-12-14 07:07 | 16.~20.

18.

   五月三十一日(日)

 朝八時半にカオルの部屋の電話を五回鳴らす。しばらくするとぼくの電話が一回鳴る。やっと目鼻がついてきた原稿をそろえる。やかんを火にかける。伸びをする。昨日の雨がうそのようないい天気だ。梅雨入りを前に貴重な晴れ間。窓を開けて庭を見下ろすと、チリアヤメがポツポツ咲いている。そう、この花の時期が過ぎないうちにカメラを手に入れよう。チリアヤメだけじゃない、よく見ればピンクの花も咲いているし、そのとなりも・・・。ノックの音が。
「じゅーん。」
カオルが、まだ眠たそうな顔で入ってきた。
「まだおねむのようだね。」
「急いでひげ剃ってきた。ユトリロに会うのにひげが伸びてちゃマズイもんなー。オレにとって彼は・・・、じゅん、お湯が沸いてるよ。」
「ああ、そうだった。」
「ねえ、あの絵、完成したの。あとで見に来て。」
「おおっ、見る見る!」
カオルはぼくのベッドの上にちょこんと座った。
「カオル、カップスープ飲む?」
「飲む!」
マグカップにスープの粉末を入れ、お湯を注ぐ。これでもか、というくらい混ぜる。
「おまえ、調子はどうなのさ。」
「めまいは時々するんだけどね。明日医者に行くよ。」
「その方がいいな。トマト味とコーンとどっちがいい?」
「コーン。」
「そう言うと思った。どうぞ、ぼっちゃま。」
「さんきゅー。朝のスープもいいね。」
カオルはカップに鼻を近づけて匂いを楽しんでいる。
「もうすぐ始まるよ。つけておくね。」
ぼくはテレビのスイッチを入れた。
「じゅん、原稿は大丈夫?」
「ああ、もうなんとかなりそう。」
「じゅんは平気だよ。じゅんならなんとかなるもん。」
「そうかな。」
彼がいつも(根拠はないけれど)大丈夫だと言ってくれるのが、少なからずぼくの精神安定剤になっている。
「フレンチトーストでも作ろうかな。」
「え、そんなことできるの?」
「そんなことって、牛乳とたまごをパーッとやってこう・・・。」
「なんだかわからないけど、食べたい。」
「砂糖も入れるんだったっけ?」
「そうかな。甘いよね、少し。」
冷蔵庫から牛乳とたまごを取り出すと、カオルは横に来て覗き始めた。
「シナモンはないけど・・・。ぼっちゃま、テレビが始まりますぞ。」
「まだ二分くらいあります。たまご割ってあげる。」
ぼくがボウルを出すと、左手でたまごをコンコン、と割った。
「おっ、いいたまご。黄身がプリッとしてるねえ。」
「ぼっちゃまのおしりみたいです。」
「オレのおしり見たの?あ、ねえ今度銭湯に行ってみない?広い風呂に入りたいの。」
「銭湯か。オレ熱い風呂ってダメなんだけど。」
「じゅんにも弱点があったか。」
「あるよ、いっぱい。」
「じゅんがまだここに住む前にひとりで銭湯行ったことあるんだけどさ、大変だったんだよ、コンタクトレンズ落としちゃって。コンタクトを探すためのコンタクトが欲しいと思ったね。」
「はずしてから入ればいいのに。」
「はずしたらどこに蛇口があってどこに風呂があるのか見えないんです。」
「じゃあメガネで。」
「メガネは曇っちゃうでしょ?目がいい人にはわからないんだから。」
「目が悪いぼっちゃま、テレビが。」
「あ、始まった。」
カオルは慌ててテレビの前へ。
 ぼくが適当に作ったフレンチトーストを、カオルはユトリロを見ながら二枚食べた。ぼくも途中から一緒に座ってテレビを見た。カオルの絵は、ユトリロの『白の時代』のものに似ている。カオルの部屋に貼ってあるポスターの絵も出てきた。カオルは時々、うーん、とか、はあー、とか言いながら熱心に見入っていた。本編は四十五分間で終わり、そのあと十五分間は今開催されている美術展などの紹介と次回の予告があった。
「あー、疲れた。久しぶりにテレビ見たよ。ねえ、コーヒー飲みにこない?」
「行く!絵も見たいし。」
ぼくらは木製の階段を三階へと上がった。
 カオルの部屋に入ると、いつもの油絵の具のにおいがする。カオルはラジオをつけた。
「どれどれ。」
ぼくはまっすぐ絵の前へ。カオルはお湯を沸かしに。
「おー、いいねえ。空の色、明るくしたんだ。」
「そう。薄曇りにするとやっぱり全体が重たくなるから全部晴れさせちゃった。」
「見に来るたびに天気が変わってたもんね。晴れに落ち着いたワケね。」
「うん。」
漆喰の家並み、石畳を黒い犬がなんだかしあわせそうにトコトコ。空は潔い青。
「いいよ。なかなかナイスだよ。おまえの絵を見ると創作意欲がわいてくるよ。」
「これで完成だって決めたら気持ちが楽になったよ。」
カオルは挽いた豆をペーパーに入れている。
「なんかさあ、バイトしてるあいだずっとあの人のこと考えてた。」
「うーん、昨日ずっと近くで見てたからね。」
「市民センターで会ったとき、いつもと雰囲気全然違ったなあ。」
「女の人は髪型でずいぶん変わるよね。」
「オレさあ、あの人、好きなんだけどさ、肉体関係になりたいとかそういうんじゃないの。いや、そうなりたくないわけでもないけど、なんか、ただそばにいてくれたらいいなって。変かな。」
「変じゃないと思うよ。でもちょっと臆病になってるのかもね、恋愛に対して。」
「ハタチくらいのときとは違うね、確かに。」
コーヒーの粉に慎重にお湯を注ぎながら、彼は小さくため息をついた。
「でもカオル、好きな人がいるって楽しいだろ?」
「うん、なんかね。」
「この絵、彼女にも見せたいね。」
「んー、見せたいような見せたくないような。」
「どうして?こんなによくできたのに。」
「なんか、自分をさらけ出してるじゃない、こういうのって。」
「あ、それわかる。文章もそうだもん。でもこの絵はいいよ。おまえのいいトコが表れてるよ。繊細で素直そうな絵だよ。」
ぼくはカップをふたつカオルの前に並べる。サーバーに溜まる褐色の液体がもうすぐふたり分になる。その時、電話が鳴った。
「じゅん、出てくれる?手が離せない。」
ぼくは受話器を取る。
「立花・・・じゃなくて城石です。」
『じゅんなの?オレ。』
「まーちん、元気?」
『おまえらホント仲がいいな。夫婦みたい。』
「ばれたか。披露宴はまだなんだけどね。カオルはいるけど手が離せなくて、いや、もう離せるかも。」
『おまえでもいいんだけどさ、チケットが入ったのよ、土曜日の。四枚渡すから二枚は誰かにあげて。』
「いいの?」
『初回だからね。今もこれから練習なんだ。』
「そう。がんばってるね。」
『そっちに行く時間がないんだよ。だから地図と一緒に郵便で送るわ。明日出すから。』
「わかった。たのしみにしてるよ。カオルに代わろうか?」
カオルはこっちを見ながら、別にいいよ、という顔でコーヒーを飲んでいる。
『言っといてくれればいいよ。また電話する。』
「了解。喉、大事にしろよ。風邪ひかないようにさ。」
『ありがと。じゃあ。』
受話器を置く。カオルがカップを差し出す。
「さんきゅー。まーちんがチケット四枚送ってくれるって。」
「四枚?」
「二枚は誰かにあげてくれって。」
「誰かって・・・。じゅんの知り合いにあげたら?ラジオの人とか。」
「ねえ、ジュリアさんにあげるってのはどう?」
「えー、だって・・・。そういうの好きかどうか。」
「弟さんは好きそうじゃん。」
「・・・そうか、じゅんの番組を録音するくらいだもんね。」
「おまえ、傘返すんだろ?その時に渡せる。」
「えーっ!オレが渡すの?」
「そりゃそうだよ。いいじゃん、傘と一緒にハイって。」
「そんな簡単に言うけど。」
「簡単じゃん。で、いつ行く?」
「今日はバイト早いからダメ。明日は医者次第。」
「チケットもまだ持ってないしね。じゃあオレ今日カメラの物色に行ってこようかな。」
「あ、ついに買うの?」
「あれを撮りたいんだ。」
ぼくは窓から庭のチリアヤメを見下ろす。カオルも横に来てそうする。コーヒーを片手にふたりで庭をながめている。平和な日曜日だ。
 お昼少し前にアパートを出て、カオルと一緒に八王子駅までバスで行った。カオルはそのまま立川へ、ぼくは駅前にあるカメラ屋へ。カメラもあれだけ種類があると、どれがどういいのか悪いのかさっぱりわからない。かといって店員に訊く気もしない。とりあえず信用できそうなメーカーに決めて、そのメーカーの出しているカメラのカタログを見る。あまり機能が多すぎず、かといってあまりランクの低すぎないものを吟味し、ひとつのデジタルカメラに決めてみた。そのカメラについて一応説明を聞き、それを購入することにした。カメラは小さいのに、箱はやたら大きかった。

 アパートへ戻ると、まず庭へ行ってみた。確かにチリアヤメはしぼみ始めていた。まだ二時過ぎだというのに、もう。
「あら、じゅんくん。」
ヒジカタさんが来た。
「ああ、こんにちは。花を見せていただいてます。」
「そういえば昨日の、よかったわ。いろんなのが見られて。」
「そうでしたね。たのしかったです。」
「よく見ればうちにもいろいろあるのよ。じゅんくんの部屋からじゃあジャングルみたいで見えないでしょうけど、ここの奥とか。」
ヒジカタさんが木の枝をどけると、白いものが。
「それはなんですか?」
「シライトソウよ。きれいでしょ?」
「きれいですね。あ、そこにも。」
「これはクリンソウ。ねえ、昨日展示されてたスズムシソウもあるのよ。三月四月だったらもっといろいろ咲いてたのよ。」
「窓からは見たんですけど、もっと近くにくればよかったですね。あ、あの、今度花の写真を撮らせてもらっていいですか?」
「どうぞどうぞ。花もよろこぶわね。」
ヒジカタさんは鉢に出ていた雑草を取りながらそう言った。ぼくも手伝いたいところだが、雑草とそうでないものの区別がつかない。
「このところカオちゃんに会わないんだけど元気かしら?」
それがそうでもないんです、とは言いにくい。
「ええ・・・。あ、そうだ、絵が完成したんで今度ヒジカタさんにも見てもらいたいって言ってました。」
「まあそう。それはたのしみね。カオちゃんがいるときに行ってみるわ。」
 ヒジカタさんと別れて部屋に戻る。ディープ・パープルのCDをかける。デジタルカメラの箱を開ける。緩衝材の中からカメラと数本のコードが出てきた。取扱説明書を読まなくてはならない。(カオルなら泣きたくなる作業だ。)コード類は充電に使うものとパソコンやビデオに接続するためのものだった。パソコンもビデオもないぼくにどうしろって言うんだ。カメラの使い方は思いのほか難しくはなかった。説明書を片手に、そのへんにあるものを無意味に写してみる。無意味な写真を消去できるのがデジカメのいいところだ。撮っては消し、だいたい使い方がわかったところで、外のものを撮ってみようとドアを出た。そこへカオルが階段をのぼってきた。
「カオル!」
「じゅん、また早退してきちゃった。」
「どうした?めまいか。」
「うん、普通に立ってればいいんだけどさ、下を向くとね・・・。だから品出しができないの。それにまた幽体離脱した。」
「大丈夫か?寝たほうがいいんじゃないの?」
「今は平気。」
「貧血なのかな。ちゃんと食べてるか?」
「食べてるつもり。今日が日曜じゃなければ医者に行けるんだけど。」
「横になったほうがいいよ。」
「うん、そうする。じゅん、明日起こしてくれる?医者って九時から?」
「そうかな。」
「八時に電話して。」
「わかった。あんまり神経質になるなよ。」
「うん。」
三階へ行く後姿に元気はなかった。
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by whitesnake-7 | 2007-12-13 07:07 | 16.~20.

19.

   六月一日(月)

耳元で小さな声。
「じゅん、たすけて、夢の樹が切られちゃった。」
「きみは・・・夢樹?」
「ぼくの住処がなくなっちゃうよ。」
「どうすればいいの?」
少年は目の前に舞い降りた。木の葉に似た緑色の服を着ている。
「夢の樹の枝をとってきて欲しいんだ、それがあれば・・・。」
そこで目が覚めた。またあいつの夢だ。夢の樹?そんなこと言われてもぼくはそんな樹見たことないぞ。いや、見たことがあってもどれがそれなのか知らないぞ。
 八時になるまでに原稿の清書を終えることができた。予定枚数にぴったり。封筒に入れて机の引き出しに収める。あとは明日編集部に出せばOK。
 八時ちょうどにカオルに電話する。ベルを五回鳴らして切る。すぐに返事のベルが一回鳴った。十分程してからぼくは様子を見にカオルの部屋へ行ってみた。ノックをする。
「カオル、開けるよ。」
「どーぞ。」
カオルは着替えているところだった。相変わらず華奢だ。
「気分はどう?」
「下を向かなければ平気みたい。だから顔が洗えなくってさ。拭くだけ。」
「そりゃ不便だね。医者、ついて行こうか?」
「ありがと、でも大丈夫。チャリンコで行くから。」
「バスの方がいいんじゃない?」
「それなんだけどさ、この頃おかしいの。バスとか電車に乗るじゃん。ドアが閉まるのが怖いんだよ。なんか閉じ込められるみたいで息苦しくなる。」
「閉所恐怖症になったのか?」
「急になるものなのかなあ。」
「今までは平気だったんだろ?」
「うん。とりあえず行ってくる。」
「なんか食べなくていいの?」
「血液検査するかもしれないから。」
「あ、そうか。」
ふたりで部屋を出る。階段を下りながらカオルは言った。
「ヒジカタさんには言わないでくれる?心配するから。」
カオルの後姿を見送って部屋に戻る。机の上を何かがよぎったような気がした。なんだ?近づいてみたが、なにもなかった。あの本が置いてあるだけだ。・・・なんだ、また・・・。表紙の色が微妙にくすんで見える。窓のそばへ持っていって見てみたが、やはり光の具合いではなさそうだ。まるで生き物のような気がしてちょっと戸惑うけれど、処分してしまおうとは思えなかった。
 余りもので朝食を終えると、ぼくはスクーターで富士森公園へ向かった。やはり気になって仕方がなくなったのだ。テニスコートの近くにスクーターをとめて、彫刻の広場へ行ってみた。散歩の人が数人。ぼくは夢樹のいたツツジを見てみた。変わった様子はない。坂を上って神社の方へ行ってみた。キョロキョロしながら神社を一周し、参道を歩いていくと、・・・あった。なんの木かわからないが(特別変わった木には見えないが)根元から切られて、さらに1メートルくらいの長さに分断されて積まれている。これなんだろうか。反対側に回ってみると幹に穴があいていて、病気か虫害なのだろうと思わせた。まだ葉は青々としている。ぼくは枝先の三十センチくらいを折り取った。一本でいいのか?一応三本くらいいただいておこうか。気が付くと向こうから作業着を着た男の人がふたりやってくる。ぼくは小走りにそこを離れた。
 公園から帰る途中でスーパーに寄った。カオルに果物でも買って行こうと果物の売り場をさまよったり、貧血だったらレバーがいいかも、と肉のコーナーをながめたり。ナマのレバーはどうしていいかわからないので、惣菜売り場で調理済みのレバーを探した。まるでカオルの奥さんみたいだ。

 部屋に戻って留守電を解除する。
『用件は、一件です。』
手を洗う。
『もしもし、じゅん、オレ。貧血とか血圧じゃないみたいだって。病院で調べた方がいいらしくってさー、紹介状書いてもらったの。明日は病院だよ。悪いけどまた八時に起こしてくれる?耳の検査するみたい。・・・そんな城石でした。これからバイト行ってくる。じゃあね。』
貧血じゃないのか。じゃあなんなんだろう。考えながらぼくはポケットから枝を取り出した。グラスに水を溜め、その中へ挿した。よく見ると、形のいい美しい葉だ。ぼくはそれを窓辺に置いた。なんとなくその隣にりんごをひとつ置いてみた。絵になるじゃん。
 ぼくが起きているうちにカオルは帰ってきそうもなかった。ぼくはカオルへの差し入れを彼のドアのノブに提げておいた。
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by whitesnake-7 | 2007-12-12 07:07 | 16.~20.

20.

   六月二日(火)

 朝の風にカーテンが揺れている。昨日取ってきた枝の葉が朝日にきらめいて・・・。
「夢樹!」
グラスの横に夢樹が立っていた。
「じゅん、ありがとう。これがないとダメなんだ。」
うれしそうにそう言うと、葉を一枚取ると端からモグモグと食べ始めた。
「このりんご、くれるの?」
「りんごも食べられるのか。」
りんごは彼の背の高さ程あった。
「それ、小さく切ってあげるよ。」
ぼくは自分の発した声で目が覚めた。一体どうなっているんだろう。どこまでが夢でなにが現実なのか、あいつの夢をみるとわけがわからなくなる。起き上がって窓辺へ。グラスに挿した枝はそこにある。りんごも。ぼくは夢遊病なのか?でもちょっとおもしろくなってきた。ぼくが眠っている間に小さな少年が現れて葉をかじっていったと思うと、神秘的だ。ぼくはあの本を見た。昨日は確かにくすんで見えたあの表紙が今日は鮮やかだった。色が変化するその表紙に、もう驚かなくなっていた。本の横の時計を見る。え?もう七時半?こんな時間に起きたのは何年ぶりだろう。カオルを起こす時間に遅れなくてよかった。
 洗濯を終えて、八時にカオルに電話する。すぐに返事のベルが鳴る。洗濯物を干してからカオルの部屋へ行く。
「カオル、入るよ。」
「どーぞどーぞ。」
カオルはひげを剃っていた。
「そんな童顔にひげが生えるのが信じられないよ。」
「童顔でも一応オトナなの。あ、昨日さんきゅー。りんごとかいろいろ。昨日はバイト平気だったの。もうあんまり休めなくなりそうなんだよ、杢代さんっていう奥さんがやめちゃうんだ。だから後藤くんがたよりなの。後藤くんが学校から帰ってくるのが待ち遠しくて。」
「杢代さんの後釜は募集しないの?」
「してるんだけど、まだ。決まるまでは店長と奥さんとオレだけでなんとかしなくちゃね。」
「無理すんなよ。そうだ、明日E-CAFEに行こう。あさっては店が休みだろうから。」
「そっか、もう木曜日がくるのか。早いなー。」
「あれ、おまえもう行くの?」
「うん。混んでるから早い方がいいって。」
ふたりで部屋を出る。昨日と同じだ。
「じゅん、今日新宿でしょ?」
「そう。原稿無事に仕上がってよかったよ。」
「だから言ったでしょ、じゅんは大丈夫だって。」

 編集部の廊下で偶然話し声を聞いた。
「笹山さん、いつまであのぼうやを雇っておくのよ。」
「いつまでって?」
「井田さんが急にやめちゃったからとりあえず書かせてみただけなんでしょ?」
「とりあえずってわけじゃないさ。それに、わりと人気があるんだよ、あの子のページ。」
「枠を拡大したっていうじゃない。ぼくのページ増やして欲しいなあ。」
「無理言わないでよ、上からの指示なんだからさあ。」
「ぼうやにいくら払ってんの?もったいないよ。」
「でもあれが好きな人が結構いるんだって。本当よ。たいした文章じゃないかもしれないけどさ、今の人はああいうのがいいのかもね。ああ、もうすぐ彼くるからさ、変な話しないでくれよ。」
「上の人もなに考えてるんだか。」

 電車のドアの横に立って、流れていく景色をぼんやりと見ていた。木々の緑がもう色濃くなっている。六月か。もうすぐ梅雨。雨の街もきらいじゃないよ、ぼくは。他の事を考えようとしてみても、やっぱりダメだった。笹山氏から受け取った読者からの手紙も今は読みたくない。ぼくの文章が子供じみていることは自分でもよくわかっているし、読者からもくだらないとかそんなことはしょっちゅう言われて、最初は落ち込んでいたけどもう慣れたつもりだった。だけど、笹山氏と話していたのが落合さんだったなんて・・・。そもそもぼくがこの出版社を選んだのが、落合さんの文章が載っている週刊誌を出しているからという理由だった。落合さんにあこがれていたのだ。ぼくの文章は子供じみているかもしれない。それは落合さんのせいじゃないさ。だけど、ショックだった。ふたりの話を聞かなかったふりをするのが精一杯だった。
 八王子駅に着いてバス停まで行ったが、バスに乗るのをやめて歩き始めた。平日でも人は結構いるものだ。立ち並ぶ店を見るともなく見て歩く。ショーウィンドウに映ったぼくは、もぬけのからが服を着ているようだった。店の壁に貼られた『アルバイト募集中』の紙がすこし剥がれかかってヒラヒラしている。時給九八〇円。バイトでもしようか。その方が原稿料よりもらえるというものだ。これ以上あの仕事を続けていく意味が自分にあるだろうか。ぼくを拾ってくれた笹山氏への恩返し的な気持ち?そんなに多くはないけれどファンがいるから?そんなことが頭の中をグルグル回って離れなかった。
 アパートに着いて郵便受けを見ると、まーちんから封筒が来ていた。チケットだ。そうか、ついにまーちんもプロなんだなあ。それに比べてぼくはなにをしているんだろう。・・・いや、そのことを考えるのはもうやめよう。そうだ、カオルから電話が入ってるかもしれない。ぼくは部屋へ急いだ。
『用件は、ありません。』
無表情な女性のその声が、むなしさを一層強くした。それと同時に、ぼくはジュリアさんを思い出していた。あの笑顔に会ったら、このモヤモヤした気持ちも少しはやわらぐだろう。《じゅんくんの話し方、好きよ・・・》あのときのジュリアさんの表情が浮かんだ。その声はやわらかく胸に沁みた。
 マイケル・シェンカーのCDを探していると、電話が鳴った。
「立花です。」
『じゅーん。』
「カオル、どうだった?」
『まだ途中なの、すごい混んでてさ、検査であっちこっち振り回されてる。』
「そうか。」
『頭のCT撮ったり、今なんか変な台にのっかって平衡感覚をみるとかいうのやったり。それはいいんだけどさ、じゅん、忙しい?』
「忙しくはないけど。」
『カオちゃんのお願いをきいてくれる?』
「カオちゃんのお願いか。イヤな予感がするけど。」
『今日だけオレの代わりにバイトに行ってくれない?』
「え、オレが?だってなんにもわからないよ。」
『いいの、品出しだけでも。オレ間に合いそうもないから店長に電話したんだよ、そしたら杢代さんが急用で、店長ひとりなんだって。だからどうしてもこいって言うんだよ。どうしてもって言われても無理だって言ったんだけど、誰かいないかって。』
「オレに白羽の矢が立ったワケね。」
『ダメ?疲れてるだろうと思うけど。』
「いいよ。役に立たないのを承知で店長がそう言ってるんだったら。」
『じゅんは器用だから役に立つよ。お礼はするからさ、たのむね。』
「で、何時から?」
『できれば今すぐにでも。』
「マジで?」
『あ、オレの名前呼ばれてる。行かなくちゃ。悪いけどお願い。』
「わかった。」
 ぼくはスクーターで駅へ行き、ちょうど到着した中央線に滑り込んだ。
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by whitesnake-7 | 2007-12-11 07:07 | 16.~20.