カテゴリ:6.~10.( 5 )

6.

 このまえと同じ、赤い日よけが目の前に現れた。
「ここにつないでおいて大丈夫かな。」
「らんまる、おにいちゃんたちはゴハン食べてくるから、おとなしくできるよね?」
らんまるの黒い瞳がキラキラしている。ふたりでゆっくりとらんまるから離れて、店に入る。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ。」
コーヒーを運んでいる最中だった。店はかなり混んでいたが、窓際の席があいていたのはラッキーだった。この前座った席だ。ぼくらはそこへ腰掛けると、窓の外を見た。らんまるもこちらを見ている。ぼくらが逃げないことがわかったらしい。
ふたりして外を見つめているところへ、
「あら、黒いワンちゃん。」
ジュリアさんが水を持ってきた。
「あなた達の?」
「ええ、預かってる犬なんですけど。」
「きれいねえ、毛並みがツヤツヤ。えーと、カオルくんとじゅんくんだったかしら。」
「あ、そうです。」
ぼくは彼女の目を見た。にっこり笑っている。この前と同じように。
「ランチをふたつ、お願いします。あと、ぼくはコロンビア。じゅんは?」
「えーと、今日はモカにしようかな。」
「ランチをふたつと、コロンビアにモカね。かしこまりました。」
ジュリアさんはきびきびとした動きでカウンターの方へ戻っていった。シンプルな黒いエプロンの下の白いYシャツの襟がピンととがっていた。
「あ、らんまるが。」
どこからかやってきた幼い女の子になでてもらって、うれしそうにしっぽを振っている。人に飛びかかったりしないので本当に助かる。
「お待たせしました。」
ジュリアさんが運んで来たのは、コーンスープにサラダ、ボリュームのあるサンドイッチ、豆のトマトソース煮のようなものだった。
「いただきます。」
店の中は結構にぎやかだった。ほぼ満席。みんなたのしそうに話をしている。席の間をジュリアさんが通り抜けていく。ぼくはスープをすくった。
「じゅん、あの男の人、ジュリアさんのだんなさんかなあ。」
カウンターの奥に、髪を後にキュッと束ねた男の人が手際よく働いている。
「うーん、そうかもね。」
「やっぱ、奥さんかー。」
サンドイッチを片手に、左手のスプーンは豆をつついている。
「ああいう感じがカオルの好きなタイプ?」
「ち、違うよ。・・・でもちょっとやさしそうじゃん。」
へえ、と思いながらぼくもサンドイッチをほおばった。
「ねえじゅん、これ大豆?」
「そうみたいですよ、ぼっちゃま。」
「おいしいね。こういう食べ方もあるんだなー。ベーコンが入ってる。」
「むかし給食でこんなふうなの食べたっけ。」
「そう?オレ初めてだな。給食もなつかしいねえ。何年前だろう。」
「転校するたびに各地の名物を食べたんじゃないの?」
「そうだったかなあ・・・。そんなに変わらなかったような。」
窓の外にらんまるの寝そべっている姿を時々確かめながら、そんな会話を続けていた。
「・・・あ。浮かんできた。」
「刑事さん、ホシのメボシがついたのか?」
「あはは、違うよ。原稿の続きを思いついちゃったの。」
「じゅんが原稿が進まないなんてこと聞いたことなかったのに。」
そう、特別難しい文章を書いている訳でもないのだが、なぜか今朝は行き詰ってしまった。
「あー、なんか胸につかえていたものがスッと降りた気がする。」
「この豆がよかったんじゃないの?」
「そうかもしれない。カオルの給食かもしれないし。さんきゅー。」
カオルはぼくの顔をまじまじと見つめた。
「じゅんって、そういうトコえらいと思うよ。」
「なにが?」
「どうでもいいようなコトなのに、オレに感謝してくれたりするじゃん。前にもさー、じゅんが寝てるとこ起こしちゃったときに、フツーなら機嫌が悪くなるとか怒るとかするのに、悪い夢みてたから起こしてもらってよかったよって言ったの。」
「覚えてないな。」
「オレ、すっごく印象に残ってるよ、じゅんって変わってるなーって思って。オレさー、じゅんと友達だってこと、少し自慢なの。」
「そんなこと言われるとテレるじゃん。オレだっておまえには感謝してるよ。おまえの絵を見るとインスピレーションっていうか、ヒントを得ることもあるし、オレもクリエイティブな気分になれたりさ。」
「オレも少しは役に立ってるってこと?」
「すごく立ってるよ、少なくともオレには。」
「すっげーうれしいな、それ。誰にもそんなふうに言ってもらえないもん。」
「あとね、コーヒー淹れてくれるのが好き。」
「もう、いつでも淹れちゃう。」
いつもの無邪気な笑顔である。カオルの天真爛漫な部分に触れると、こっちも素直になれる。
「コーヒー、お待たせいたしました。」
ジュリアさんが来た。
「カオルくんがコロンビアで、じゅんくんがモカね。」
「どうも。あの、この煮豆おいしいですね。」
ぼくはカオルのために(?)彼女を少し引き止める作戦に出た。
「あら、お気に召してうれしいわ。小野寺くんに言わなくちゃ。」
「オノデラクン?」
「ああ、あそこの彼のことよ。小野寺くんが作ったの、このお豆。」
さっきカオルが気にしていた、カウンターの奥の男の人のことだった。
「ご主人じゃないんですか?」
カオルが一番訊きたいであろうことを訊いてみた。
「あら、そういうふうに見えるかしら。違うのよ、彼のおじいさまがここのオーナーで、私達は学生時代の同好会仲間なの。」
「そうなんですか。てっきりご夫婦かと。」
「これでも一応花の独身なの。ジュリアって名前も不思議でしょうね。これも同好会の、演劇同好会だったんだけどね、その時に劇での役名がジュリアだったの。」
「そうなんですか。」
なぞがひとつ解けました、という顔でカオルが見ている。
「小野寺くんがジュリアって呼ぶから、お客さんまで私のことそう呼ぶようになっちゃって。」
ジュリアさんはあいた皿を静かに持ちながら話してくれた。きれいな手だ。
「料理は彼のほうが上手なんだけど、コーヒーを淹れるのは私のほうがうまいのよ。」
「ここのコーヒー、めちゃめちゃおいしいです。」
彼女はうれしそうに微笑んだ。いつもの笑顔。
 
店を出るとらんまるが気が付いて立ち上がり、しっぽを振っている。
「らんまる、お待たせー。」
二人でかわるがわる彼の頭や首をなでる。
「じゃあ、帰ろうね。画家のおにいちゃんはバイトに行っちゃうけど。」
「西八王子まで歩いて行こうっと。まだ時間あるし。」
「何時までだっけ?」
「七時か八時。後藤くんが来るまで。九時までには帰れると思うけど。もう寝ちゃう?」
「おまえが帰ってくるまで起きてるよ。あわてなくていいよ。」
しばらくカオルの後姿を見送ってから、ぼくはらんまると帰途に着いた。らんまるはぼくの左側をトコトコ歩く。背中が右に左に曲がる。毛並みが黒く光っている。時々立ち止まって、匂いを確認。
「らんまる、八王子も気に入った?」
ぼくの方を見た。また歩き出す。空には白くて形のいい雲が浮かんでいた。気分のいい午後だ。原稿の続きも書けそうだし、順風満帆。らんまるに声をかけてくる人はたくさんいた。今日は何人と挨拶を交わしたか知れないな。犬が一匹いるだけで、生活ってずいぶん違うものだな、と思った。富士森公園の中の彫刻の広場で立ち止まった。
「らんまる、あの大きな木、幹が二股に分かれてるだろ?あそこに登ってみたいよね。」
ぼくの話をよそに、らんまるはツツジのしげみに鼻先をつっこんでいた。いくよ、と軽くリードを引いても、しばらくそこから離れなかった。気に入った匂いでもあったのかな。らんまるに少しでも多くの発見をさせたくなって、さっきとは違う道を帰った。アパートの近くの八百屋にヒジカタさんがいた。
「じゅんくん、お散歩?」
「ええ。おとなしいんで助かりますよ。」
「カオちゃんは立川ね、あとで一階に寄ってちょうだい。」
「わかりました。」
アパートへ戻ると、入口にぼくの隣の部屋の花崎さんがいた。郵便受けを覗いているところだった。花崎さんは名前のとおり花が好きな男の人だ。ぼくと同じ一人暮らしの、気さくな人である。ヒジカタさんと同年代だろう。
「こんにちは。」
「ああ、立花くん、こんにちは。すごい犬だねえ、どうしたの?」
「一晩だけ預かることになって。」
「あ、そう。きれいな子だねえ。」
彼は顔を近づけてらんまるの頭をなでながらそう言った。らんまるはしっぽで答える。
「ご迷惑をおかけします。」
「いいや、犬は大好きだよ。」
「よかった。」
花崎さんがらんまるをこねまわしている間に、ぼくも郵便受けを確認する。花崎さんと一緒に階段をのぼる。
「大きい犬は迫力があるねえ。」
「らんまるって言うんです。」
「いい名前だね。そうだ、庭にねえ、チリアヤメが咲き始めたよ。今度見てごらん。毎日いくつか咲くから。」
「アヤメですか。」
「芝生の中にね、むらさきいろの。」
「わかりました。」
もう一度らんまるの頭をポンポンとたたいて、じゃあ、と部屋に入っていった。
「さてと。おまえ、足を拭かなくちゃね。土の上を歩いたし。」
らんまるをドアにつないでおいて部屋に入り、タオルをしぼる。留守電を解除する。
『用件は、二件です。』
らんまるの足を拭く。
『町矢です。今空港に着いたとこ。らんまるは大丈夫かなあ。カオルの方にかけてみるわ。』
らんまるはご主人の声がわかったらしく、電話の方を見ている。
「まーちんがおまえのこと心配してるんだよ。」
もう一件もまーちんだった。
『町矢です。これから福岡行きの飛行機に乗りまーす。カオルもいないみたいだね。らんまるはたぶん大丈夫だとは思うけど、・・・またかけます。』
らんまるの足を拭き終えると、リードをはずした。
「楽にしていいよ、らんまる。」
彼はたのしそうに水を飲む。チャプチャプといい音をたてて。さてと。夕飯用にごはんを炊くか。らんまるはしばらくぼくが逃げないか確認していたようだったが、確認終了とみえて毛布に寝そべった。
「そうそう、安心していいよ。逃げるようなヤツじゃないって、朝から見てればわかるだろ?」
ぼくは米をといで炊飯器にセットしてから、冷蔵庫を覗いた。今夜のおかずになりそうなものは・・・納豆かハムの残りとたまご、野菜の切れ端。味噌汁でも作るか。そういえば、ヒジカタさんに呼ばれてたんだっけ。もう帰ってきたかな。
「らんまる、ちょっと一階に行ってきてもいいかな。」
らんまるはサッと立ち上がった。わかったよ、連れて行けばいいんだろ?この調子では三階の廊下につないでおくのなんて無理そうだ。らんまるにまたリードをつけて、一緒に一階までおりた。ヒジカタさんの部屋をノックする。はーい、と奥から声がする。少ししてからドアが開いた。
「あ、じゅんくん、ちょっと待ってね。」
女の人の笑い声がする。誰か来ているらしい。
「お待たせ。妹がふたり来てるのよ、にぎやかでしょ。わらびの煮たの、食べられるでしょ?」
「あ、はい。いいんですか?」
「カオちゃんにもあげて。あと、羊羹ね。」
「ありがとうございます。」
そうこうしていると、奥から妹さんが出てきた。
「あら、かわいい男の子。こんにちは。」
目元がそっくりだ。
「こ、こんにちは。いつもヒジカタさんにお世話になってます。」
ヒジカタさんが七十七歳だから、妹さんも六十代か七十代だろう。明るそうな人たちだ。
「落花生も持っていきなさいよ、私、千葉から持ってきたの。」
そう言って袋に落花生を入れてくれた。
「ありがとうございます。」
「この子が立花潤くんよ、前に言ったでしょ?」
ヒジカタさんが言った。
「えっ、あなたが週刊なんとかに載ってる人?」
「私読んだことあるわよ、マイルドなんとかでしょ?」
「マイルド・ライフです。」
「まあ、有名人に会っちゃったわねえ。ねえ、おせんべいもどう?」
おばちゃんパワーはすごいのである。ぼくはらんまるのリードとわらびの器とお菓子の袋を持ったままふたりと握手をしなければならなかった。らんまるもめいっぱいなでられた。がんばってね、とか言われながらドアを閉めた。階段をのぼり始める前に、もう三人の笑い声が聞こえた。たのしそうだ。
「女の人が集まるとかしましいんだよ、らんまる。」
ぼくがラジオ番組をやっていることをヒジカタさんに言ってなくてよかった、と思った。
「夕飯のおかずがひとつできたよ。わらびなんてなかなか食べられないよ、貴重だぞ。」
らんまるはぼくの顔を見た。
「そうだ、なにアヤメだっけ、見なくちゃ。」
ぼくは花崎さんの言ったことを思い出した。部屋の窓を開けて、庭を見下ろしてみる。キンモクセイのまわりの芝生の中に、むらさきいろの小さな花がぽつんぽつんと咲いていた。三枚の花びらが整っている。きれいだ。しばらく見とれていた。明日らんまるにも見せよう。
庭にはヒジカタさんと花崎さんの植えた植物が所狭しと並んでいる。ぼくは原稿書きに行き詰るとよく庭を見て気分を入れ替えたりする。なんとかアヤメの他にも、いろいろ咲いているが、パンジーやツツジくらいしか名前がわからない。風にさらさらとそよいでいるあの美しい葉はフウチソウなのだと、この前花崎さんに教えてもらった。風を知る草と書くそうだ。これは覚えやすかったが、むらさきのはなにアヤメだっけ?今度もう一度訊くことにしよう。
「まーちんはもう着いたのかなあ。」
机に向かう。らんまるはしばらくすると目を閉じた。ぼくはE-CAFEで思いついた文章を原稿用紙に書き綴った。

 夜七時を少し回ったところで、らんまるのゴハンにした。
「もうちょっと味わってゆっくり食べればいいのに、どうして急ぐのかなあ。」
らんまるはあっという間に食べ終えると、器の匂いをかいでいる。その時、電話が鳴った。
「立花です。」
『じゅん、オレ。』
「まーちん、遅かったね。」
『電話する時間がなくってさー。らんまる、どう?』
「すごくいいコだよ。おとなしいし。ちょっと寂しがりすぎだけど今のところうまくいってるよ。」
『よかったー。ちゃんとトイレにしてる?』
パパみたいだな。
「ちゃんとしてるよ、はみ出さないようにカオルに言われたから。」
『そうか。こっちは今終わったところ。』
「どうだったの?」
『結果はまだ。オレらの出番が終わっただけ。まだまだかかりそう。みんなうまいよ。』
「そうか。」
『夜の飛行機で帰って、柴田んちに泊まるからさ。また連絡するね。』
「OK。明日仕事は休みなの?」
『有給休暇とってある。』
「そう。らんまるのことは心配ないよ、ホントおりこうにしてるから。」
『たのむね。じゃあ。』
受話器を置く。らんまるが見つめている。
「まーちんは無事だから安心しな。」
らんまるの頭をなでる。ごはんが炊けるいい匂いがしてきた。
「やっぱ味噌汁を作るとするか。」
豆腐が半分ある。野菜の切れ端を探す。人参。これでいいや。どこかにカットわかめがあるじゃん。上等上等。これでたまご焼きでも作れば、わらびがあるし。適当に作って、食べ始めようとしたところにカオルが帰って来て、一緒に食べることにした。
「ねえ、じゅん、この豆腐。」
「え?」
味噌汁を見つめている。
「じゅんの性格が表れてるよね。オレはこんなキレイにこまかい四角は作れないもん。」
「それって、造形美をほめてくれてるの?」
「あはは、そうだね、そういうことだね。じゅんってオモシロイ。」
「豆腐にまでオレの本質を見いだされちゃあ、おちおち味噌汁も作れないな。」
「じゅんの性格は『マイルド・ライフ』と『立ち話』にいっぱい表れてるから、もう隠せないよ。ごちそうさま。よかったー、ごはんにありつけて。」
カオルは食器を片付け始めた。
「いいよ、洗っておくから。今日は朝からずっと一緒に食べてるな。」
「ホントだ。ほぼ同棲状態だね。今夜らんまるどうする?」
「いいよ、ここで。もう慣れたし。」
「そう。よかったなあ、らんまる。面倒みのいいおにいちゃんと一緒で。」
らんまるは少しも手がかからなかったので、面倒をみているという気はしなかった。
「そうだカオル、これ貸してあげるよ、読み終わったから。」
あの本をカオルに渡す。
「さんきゅー。今日は早く寝て、明日の朝らんまるのゴハンに立ち会おうかな。電話、五回くらい鳴らしてよ。そしたら起きるから。」
「OK。あ、そうそう、ヒジカタさんの妹さんがふたり来ててさ、落花生とかもらったの。」
「こんなに?」
「あと、羊羹も持ってって。せんべいも。」
「そういえば一階、にぎやかだったな。」
袋の中の菓子を分け合う姿は、子供の遠足みたいだ。
「あ、この羊羹知ってる。小布施の。栗でできてるヤツ、うまいんだー。」
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by whitesnake-7 | 2007-12-25 07:07 | 6.~10.

7.

   五月二十五日(月)

 いつも朝五時前後に目が覚める。ぼくがゴソゴソ起き上がったら、らんまるも目を開けて首を持ち上げた。まーちんは何時頃起きてるのか知らないけれど、らんまるはもう少し寝ていたいようだった。まだ起きなくてもいいよ。オレは原稿を仕上げちゃうから、当分寝てていいよ、とらんまるを軽く抱きしめて挨拶してからユニットバスの洗面所へ行く。らんまるがドアまでついてくる。
「そうか、おまえの水を取り替えてあげなくちゃね。」
ぼくが部屋を行ったり来たりするのに、らんまるはいちいちついてきた。なんだかそれがいとおしかった。らんまるは新しい水に、興味はないようだった。頭をなでて再び洗面所へ行く。顔を洗ってひげを剃って、うがいをして。その間もらんまるは後ろに立っていた。
「オレがそんなにめずらしいか?昨日からずっと一緒にいるのに。」
もう一度抱きしめると、しっぽをパタパタさせている。かわいいヤツ。ぼくは着替えをして、冷蔵庫からミネラルウォーターを出し一口飲む。窓を少し開けてぼくが机に向かうと、らんまるもほっとした様子で毛布に腰を下ろす。ぼくは昨日の続きを書き始める。らんまるが足元に寝そべっているのが、ずっと前から毎日のことだったように思えてくるから不思議だ。鳥のさえずりが聞こえる。気分がいい。
 六時半にはもう原稿を書き終えることができた。明日は編集部に届けに行ける。今どき原稿を原稿用紙に書いて届けに行くのはナンセンスなのだろうが、ぼくはずっとそうしている。編集の笹山氏がごくたまに、パソコンかファックスで送ったら、と言うけれど。(締め切りには間に合っているので強くは言わない。)ぼくは週に一度新宿の出版社へ行くのは苦ではなかった。都会が好きなわけではないけれど、都会の空気を吸いに行くのは嫌いではない。時々知らない店で食事をしたりするのもたのしい発見がある。原稿のネタにもなるというものである。火曜日はそんなふうに新宿へ通い、木曜日はラジオの録りに荻窪のスタジオへ行く。ラジオ局は荻窪ではないが、ぼくの番組くらいならラジオ局へ行かなくても小さなスタジオがあればそこで間に合ってしまう。
 らんまるのゴハンまでの時間は、番組でかける曲を選ぶことにした。しばらくマイケル・シェンカーもかけてないな。そうだ、梅雨に入ったらホワイトスネイクの『CRYING IN THE RAIN』をかけよう。ぼくがこの手のジャンルが好きになったのは、亡き母の影響である。彼女はたくさんのレコードを残してくれた。ジューダス・プリーストだとかディープ・パープル、レインボーなんかが大好きだったが、一番のお気に入りはホワイトスネイクだった。デイヴィッド・カヴァーデイルの大きなポスターをキッチンに貼っていたのを覚えている。チープ・トリックを歌っていることも多かった。・・・ついこの前のように思える。
 朝からホワイト・スネイクを聴きながら(もちろん、迷惑にならない音量で)レコードやCDをかきまわしているうちに、七時近くなった。カオルの部屋に電話をかける。言われたとおり、ベルを五回鳴らして受話器を置いた。
「起きたと思う?こんなので。」
らんまるは舌を出してうれしそうな顔をしている。とりあえず、カオルが来るまではらんまるのゴハンはおあずけである。さて、自分のゴハンを考えよう。昨日カオルが持ってきたパンをトーストするか。それに味噌汁の残り?プラス納豆???やっぱりトーストはやめてご飯の残りをチンしよう。そんなことを考えていたら、トントトン。ノックの音。
「じゅーん。」
「お、ホントに起きた。眠そうだねえ、おはよう。」
「おはよう。らんまるも、おはよう。」
抱きついている。らんまるはしっぽで答えている。
「らんまるのゴハン、やりたいんだろ?」
「うん。早起きは三文の徳だよねえ。」
ぼくがドッグフードの袋を差し出すと、カオルは容器にそれを量って出した。
「待てをするの?」
「オレはお手と待てをさせたけど。」
「らんまる、お手。」
らんまるはお行儀良く座って、言われたとおりお手をする。
「こいつかわいいな。おかわり。そうそう、上手だね、もう一回お手。」
カオルはお手が気に入ったらしく、何回もやらせている。
「待て。・・・・・よし、いいよ。」
待ってましたとばかりに、容器に鼻先をつっこむ。忙しく食べる姿を、カオルはしゃがみこんで見つめている。その時、電話が鳴った。
「はい、立花です。」
『じゅん、オレだけど。』
「まーちん?おはよう。どうだったの?」
カオルがぼくの顔を見る。
『ダメだった。』
「そうか・・・。受かるとばっかり思ってたのに。」
カオルも、がっかりした顔になった。
『やっぱ福岡の壁は厚かったよ。でもね、東京の業界人に名刺をもらったの。』
「すごいじゃん。」
『じゅん、今日忙しい?』
「忙しくないよ、なに?」
今日その人のところへ行ってみるから、夜までらんまるをたのむ、ということだった。受話器を置く。
「じゅん、今日もらんまるといられるんだったら、また散歩に行こうよ。」
この子供みたいな笑顔には勝てないと、いつも思う。
「そうだね。」
「じゅんの番組は予約録音されるから大丈夫。朝メシ、食ったの?」
「まだ。」
「ハンバーガーかなんかにしてさ、公園に行こうよ。あ、原稿大丈夫?」
「書き終わったよ。おまえ、バイトは?」
「六時からなの。」
「じゃあゆっくりできるな。」
「オレ、起きたまんまだからさ、着替えてくる。」
カオルはドアの外に出たとたんに、あ、おはようございます、と言った。ヒジカタさんの声がする。ぼくも廊下に出る。
「じゅんくん、おはよう。」
「おはようございます。昨日のわらび、おいしかったです。」
「そう、良かった。ちょっとたのみたいことがあるの。カオちゃんが起きてるならカオちゃんでもいいんだけど。写真を撮りたいのよ、妹と。」
「ああ、ぼくが撮りますよ。カオル、着替えてこいよ。」
「うん。」
カオルは三階へ行った。ぼくがヒジカタさんについていこうとすると、ドアの内側かららんまるがクンクンと悲しそうな声を出した。やっぱりダメか。
「すぐ行きますから。」
ぼくが言うと、急がなくていいわよ、とヒジカタさんは階段をおりて行った。らんまるにリードをつけて、ドアのカギをかけ、一階へ下りる。らんまるの足取りは軽い。ヒジカタさんと妹さん達は廊下にいた。部屋の中より外で撮りましょうよ、とヒジカタさんが言って、みんなで外に出た。
「あら、きれい。これなあに?」
からし色のブラウスを着た方の妹さんが言った。
「チリアヤメよ、あら、今日はずいぶんたくさん咲くわねえ。」
昨日花崎さんに教えてもらったなんとかアヤメは、チリアヤメだったか。本当にたくさん咲いていた。そばで見ると、ひとつひとつ端正な形の美しい花だ。
「らんまる、見てごらん。」
ぼくは小さな声でらんまるに言った。らんまるは鼻を近づけてクンクン。
「この木の前でいいわよね。」
三人がキンモクセイの前に並ぶ。
「ねえ、ワンちゃんも一緒に入れていいかしら。」
「あ、どうぞ。」
にぎやかな女性たちのおしゃべりを聞きながら、ぼくは何回もシャッターを押した。立って並んだり、ひとりがしゃがんでみたり。しばらくするとカオルもやっと出てきた。
「かわいいおにいさんとも撮りましょうよ。ねえさん、写してよ。」
「そうね。」
なんだかぼくらまで巻き込まれて、入れ替わり立ちかわり何枚も撮った。
「あと二枚あるわ。じゅんくんとカオちゃん、犬と一緒に撮ってあげるわよ。」
三人の女性に、こうした方がいいとかひとりは座った方が、とかいろいろ言われながらぼくらは残りの二枚に納まった。
「ありがとうございました。」
ぼくらがお礼を言うと、こちらこそ、とそれぞれ頭を下げた。
「カオちゃんたち、出掛けるの?」
「ええ、今夜犬を帰しちゃうんで名残惜しんでおかないと。」
カオルはらんまると別れるのがさびしそうだ。ぼくももう少しらんまると暮らしたい気分。
「私たちもね、散歩に行こうと思ってるのよ。多恵ちゃんの特急の時間までだいぶあるから。多摩御陵、一緒に行かない?」
「あら、若い人は若い人同士がいいでしょう?おばちゃんと一緒じゃあねえ。」
「いえ、そんなことないですよ。」
「ねえさん、あそこは犬はダメなんじゃない?それにおばさんと一緒じゃ気を使うものね。別々がいいわよ。」
「あら、残念ね。じゃあ、おむすび作ってあげるわ。少し待っていられるでしょ?」
「え、いいんですか?」
「どうせ私たちの分も作るから。ね、それ持ってお散歩に行けば?」
「ありがとうございます。じゃあお言葉に甘えて。」

ぼくらはおむすびを待つ間、庭で日向ぼっこをしていた。らんまるも気持ちよさそうに伸びをする。所狭しと置かれた植木鉢をながめる。ピンクの花をつけた草や、まだ実らない緑色の実をつけた小さな木など、さまざまなものがある。ヒジカタさんと花崎さんがいとおしんで世話をする姿を知っているので、この草花たちは彼らの子供たちのように思える。
「ところでじゅん、どこ行く?」
「おまえE-CAFEに行きたいんだろ?だったらまた富士森公園でもいいし。」
「思い出した、昨日の豆うまかったなあ。」
「オノデラクンのやつね。」
「富士森公園の藤棚のところでおむすび食べようよ。いい?」
「そうしよう。」
しばらくするとヒジカタさんが紙袋を持って出てきた。
「お待たせ。はい、これ。それにしてもいいお天気で良かったわね。」
「いつもいろいろすいません、遠慮なくいただきます。」
ぼくらは紙袋を受け取り、アパートをあとにした。
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by whitesnake-7 | 2007-12-24 07:07 | 6.~10.

8.

 らんまるはリードを持つカオルの左側を軽快に歩く。ぼくはカオルの右側に、おむすびの入った紙袋を持って歩く。
「ねえ、じゅん。なんか、平和を感じちゃうよね。」
「うん。昨日も今日も晴れてくれたしね。毎日日曜日みたいだな。」
「なんだかいいなあ、こういうの。天気が良くて、聞き分けのいい犬を連れて散歩して、お弁当があって、気のおけない友達がそばにいてさあ。」
「これがかわいい彼女だったら言うことなかったのにね、ぼっちゃま。あ、そういえば、あの絵はどうなってるの?」
「もう少しなんだけど、うまくいかないなー。」
「芸術家は大変そうだね。」
「仕事じゃないからいいけどね。じゅんは大変でしょ?」
あの出版社には事務員として入社しようとしたのに、入社試験の作文がきっかけで原稿を書くはめになった。社員にはなっていない。
「じゅんの文章はほのぼのくん、って感じがいいよ。」
「ほのぼのくんはいつクビになるかわからないけどね。」
「それはオレも同じだからさ、一緒に耐えよう。貯金はないけど。」
「ないねえ。カオルが早く売れる画家になってくれたら分けてもらうのに。」
「オレはじゅんがベストセラーを出すのを待ってるんだよ。」
「なんだ、お互いに相手の出世待ちか。」
自販機で飲み物を買ったら信号がちょうど青になった。それを渡ると、陸上競技場が見える。トラックを走る人、芝生の中でストレッチをする人、外側を散歩している人などがいる。犬はそこには入れない。昨日フリーマーケットをしていた通りを歩く。今日は静かだ。正面にあの大きなクヌギの木が見える。子供を連れた人がのんびりと歩いて行く。
「のどかだね。」
「オレ、腹へった。」
「ぼっちゃま、もうすぐですよ。」
桜の葉が風に揺れている。五月の風はさわやかでいい。坂をのぼって行くと、すぐに目的の藤棚に着いた。
「到着ー!うれしいな。遠足みたい。」
ここからは市民球場が見おろせる。今日は誰もいない。らんまるはぼくらが弁当を広げているのをしばらく見ていたが、ここで休むらしいな、という顔をしてそこへ座った。
「今度スケッチにこようかな。」
「それもよさそうだね。」
「おむすび、いただきまーす。あ、これ、おかかだ。」
「いただきます。ヒジカタさん達も多摩御陵に着いたかな。たまご焼きも入ってましたよ、ぼっちゃま。はい、割り箸。あと、フキの煮たの。」
「ぼっちゃまはしあわせじゃ。」
「オレのはシャケだったよ。」
ヒジカタさんの手が小さいせいか、おむすびもかわいらしいサイズである。妹さん達とこれを食べるのだろう。お昼までにはまだ時間があるけれど。
「じゅん、来週はなんの曲かけるか決めたの?」
「半分くらいはね。そうだ、月曜日の一曲目にスコーピオンズをかけようっと。」
「アース・ウィンド&ファイアーもお願い。」
「そうだなあ。じゃあ『SWEET SASSY LADY』でもかけようかな。」
「やった。」
10分もたたないうちに、おむすびは全て姿を消した。
 ぼくらはしばらくそこにいた。慰霊塔のまわりを歩いたり花壇の花をらんまるに見せたり、のんびりと時を過ごした。時々人が通ったが、殆ど貸し切り状態だった。
「じゅん、そろそろ移動する?おなかも落ち着いてきたことだし。」
「そうだね。コーヒーも飲みたいし。でもまだ開いてないかも。」
「十時からだよね。だけどさ、店の前のベンチで待たせてもらおうよ。」
慰霊塔の横の水道でらんまるに水を飲ませてから、E-CAFEに向かって歩き始めた。
 店の前に着くと、ジュリアさんが外にいた。ほうきとちりとりを持って、プランターのパンジーを覗きこんでいる。
「こんにちは。」
ぼくが声をかけると、彼女は立ち上がった。いつもの黒いエプロン姿。
「あら、こんにちは。うれしい、今日も来てくださったの?」
「ちょっと早いと思ったんですけど、ベンチで待たせてもらっていいですか?」
ぼくが言うと、彼女はにっこりとうなずいた。
「き、きれいな花ですね。」
カオルの言い方がおかしくて、ぼくは下を向いて笑った。
「きれいでしょう?これはね、うちのオーナーが植えてくれたのよ。お花が大好きなの。私は世話が下手だから、こうやって・・・枯れたところを摘み取るのと、水をあげるくらい。」
「ぼくらのアパートにも花好きの人がいますよ。」
「あら、おふたりは一緒のアパートに住んでるの?」
「はい。」
「そう。もしこの近くだったら、今度の土曜と日曜に山草展があるんだけど興味ないかしら。オーナーが出品するから宣伝を頼まれちゃって。」
「ぼく、行ってみたいです。ね、じゅんも行くでしょ?」
いきなり同意を求められてびっくりしたが、土・日に予定があるわけではない。
「うん、一緒に行こうか。」
「行ってくださる?ありがとう、ちょっと待ってて。」
ジュリアさんは裏口から店に入り、少ししてから戻ってきた。
「これ、案内のハガキ。場所わかるかしら。」
カオルとぼくに一枚ずつハガキをくれた。
「ああ、市民センターだったらわかります。」
「よかった。私も店が始まる前に行ってみようと思ってるの。九時からだから。」
ジュリアさんはカオルとぼくを交互に見つめて微笑んだ。その時、ドアが開いて中からオノデラクンが顔を出した。無愛想気味に会釈をしたので、こちらも会釈をする。
「ジュリア、電話だよ。」
「あ、すぐ行く。」
ジュリアさんはらんまるの顔を両手でつつみこむようになでて、店に入っていった。
「カオル、早く来てよかったな。」
「うん。このハガキ、ヒジカタさんにも見せてあげようっと。」
「そうだね、花崎さんにも教えてみよう。」
「ねえ、オノデラクンって、男前なうえに背も高かったね。」
「そうだった?エプロンが赤かったからそれに気を取られてたよ。」
「やっぱ、ジュリアさんの彼なのかなあ。」
十時に近づくと、ぼくらの他にもう一組開店待ちの客が来た。恋人同士らしきふたりだ。

 十時になった。ジュリアさんがドアを開けた。
「お待たせしました。どうぞ。」
そう言って、ドアに掛けてある『準備中』の札を『OPEN』に替えた。ぼくらは店に入ると、またあの窓際の席に座った。
「ねえ、ケーキは誰が作ってると思う?」
カオルはメニューを覗きながら、ケーキの作り主が気になり始めたようである。
「訊いてみたら?」
「あ、来た。」
「いらっしゃいませ。」
ジュリアさんがグラスの水をふたつ、テーブルに置いた。
「あ、あの、自家製ケーキっていうのは、小野寺さんが作ってるんですか?」
本当に訊くとは思わなかったので、ちょっとびっくりした。
「ケーキはね、その日によって・・・、今日はアップルパイとレアチーズケーキなんだけれど、アップルパイは小野寺くんで、チーズの方は私が作ったのよ。」
「じゃあ、ぼくはチーズケーキにしようっと。じゅんは?」
ストレートな性格だなあ。
「ぼくもチーズケーキをお願いします。」
「あと、Eブレンドをふたつ。」
「ありがとうございます。レアチーズケーキをふたつと、Eブレンドをふたつね。今日のケーキはちょっと自信作なの。期待してね。」
いつものようにニコニコッとして、そこを去った。
「カオル、おまえってすごく素直なヤツだと思うよ。」
「そう?」
ぼくはあなたに好感を持ってます!って言わんばかりの顔でジュリアさんを見てるもの。
「あ。」
「なに?」
「ネタの続きが浮かんじゃった。」
「また?昨日もここで同じこと言わなかったっけ。」
「そうだったかも。」
「ラッキー・プレイスなんじゃないの?行き詰ったらここにくれば?」
「そうだね。」
カオルは向こうにいるジュリアさんを見ている。黒いシンプルなエプロンに白いYシャツ。後ろにまとめた髪。コーヒーにお湯を注いでいるところだ。
「じゅん、どう思う?」
「何を?」
「ジュリアさん。」
「どうって言われても・・・。かわいい人だよね。やさしそうだし。」
「オレ、もうちょっと自分にとりえがあればよかったなー。」
「あるってば。おまえは性格いいから大丈夫だって。童顔もかわいいし、絵は描けるし。」
「やっぱりオレ当分じゅんでいいや。」
「オレでいいやって。オレはおまえの奥さんにはなれないんだよ、わかってる?」
「うん。でもじゅんはオレの良くないトコも知ってて付き合ってくれるもん。」
ジュリアさんが来た。
「お待たせしました。」
笑顔で、カオルとぼくの前にコーヒーとケーキをきれいに並べた。いい香り。
「ごゆっくりどうぞ。」
「いただきます。」
彼女は会釈をして戻っていった。
「やったー、チーズケーキ!」
もう無邪気なカオルに戻って、ケーキをフォークで崩した。
「ん、おいひい、これ。」
「おいひいですか、ぼっちゃま。」
「すごくコクがあって、こういうの好き。」
「どれどれ、爺もいただいてみましょう。」
きれいな二等辺三角形の先を口に入れる。なめらかなチーズが程よく甘い。
「うまいね。三つくらい食えそう。」
「じゅんが三つならオレは五個食うよ。」
「自信作って言ってたもんね。」
「ねえ、このチーズの下のサクサクしてるトコ、ほろ苦くてサイコー。極楽、極楽。」
「ぼっちゃまは安上がりな極楽で結構ですね。」
「ここのコーヒー、うまいもん。あのアパートがあんなに安い家賃じゃなかったらこの近くに引越すよ。」
「大家さんがヒジカタさんなのに?」
「それだなあ、ヒジカタさんはいい人だからなー。」
外を見ると、らんまるがいつのまにか来た老紳士にお手をしている。誰だったっけ。
「じゅん、あの人、藤村俊二に似てない?」
「ああ、思い出した。初めてここに来た時、カウンターに座ってた人だ。」
「常連さんか。」
彼はベンチに腰掛けて、らんまるの頭をさすっている。なんだか絵になる光景だった。カオルもぼくも、しばらくその紳士(おじいさん、と呼ぶ雰囲気じゃない人だ)とらんまるのいる風景を見ていた。チリン、とベルの音がしてジュリアさんがいらっしゃいませと言うのが聞こえると、カオルはジュリアさんを見た。彼女は入ってきた団体さんのために、離れたテーブルを寄せている。にこにこしながらお客さんに話しかけている。カオルはまた小さなため息をついて、コーヒーを少し飲む。ジュリアさんの書いた伝票をながめる。
「カオル、おかわりしなくていいの?」
「うん、まだいい。」
三回しかこの店に来ていないのに、そんなに人を好きになるものだろうか。ちょっと気になる程度の存在なのか、あこがれの対象なのか。ぼくは、この前バスの中から見たジュリアさんを思い出していた。髪をおろして、赤いカバンが印象的だったっけ。
「じゅん、オレ、トイレ行ってくる。」
カオルは立ち上がって、カウンターのほうに歩いて行った。ジュリアさんは団体さんの注文を受けている。いつ見ても笑顔だ。うん、カオルならお似合いかもしれないな。ぼくはカオルが座っていた椅子の背もたれを見ながらコーヒーを飲む。シンプルだけどあたたかみのあるデザインで、座り心地がいい。見ると、カオルのケーキ皿にはケーキが一口分ちょこんと残してある。食べ終わるのがもったいないから、と彼がうつむくのが目に浮かぶようだ。そんなことを思いつつ外を見る。きれいな白髪の紳士。らんまるは彼の痩せた膝のあたりをクンクンと探っている。紳士はベンチから立ち上がる様子もなく、らんまるを見つめては頭をなでている。
「お待たせ。」
カオルが戻ってきた。うれしそうな顔をしている。
「ねえ、洗面所にね、ユトリロの絵が飾ってあったんだよ。」
「ユトリロって、おまえの好きな画家だっけ?」
「そう。あれは誰のシュミなのかなあ、ジュリアさんだったらうれしいな。」
カオルはたのしそうに残りのケーキを口に運んだ。しあわせそうなヤツ。いらっしゃいませ、とまた声がするからカオルが入口の方を見る。車椅子のお客さんだ。結構たくさんの人が来るんだな。ジュリアさんが車椅子が入りやすいように椅子を移動させると、車椅子の女性はにっこりとして席に着いた。
「ねえ、じゅん。一日ここにいたらいろんな人間模様が見られるねえ。」
「そうだね。」
話しながらも時々ジュリアさんを見ている。だからつい、ぼくも見てしまう。彼女はオノデラクンから受け取った料理を次々と団体さんのテーブルへ運んでいた。
「カオル、コーヒーのおかわりしない?」
「うん、でももうちょっと待って。今サイコーに忙しそうだから。」
「ジュリアさんが?」
「そう。ちょうどあの団体さんの飲み物を作る頃でしょ?二、四、六、八人か。八人分。」
「おまえってそこまで考えてあげるんだ。すごいな。」
「だってムカシやったことあるもん、ファミリー・レストランでバイト。」
「ああ、やってたねえ。」
「団体さんが来ると大変なんだよ、みんな違うことしゃべってるし注文はまとまらないし、セットのランチなんかさあ、サラダのドレッシングをみんな違う種類を言われたりするとそれだけでもワケわかんないのに、スープ出したりしてるともうコーヒーのおかわり頼まれるし、新しいお客さんは案内しなきゃならないし、ケチャップをくれとかライスじゃなくてやっぱりパンにしてくれとか・・・。」
「嵐だね。」
「家が近かったら同じトコでバイトしたかもね。」
「そう、あの頃は福生にいたからね。」
窓の外で、あの老紳士が立ち上がった。入口の方へ歩いて行く。らんまるが見送っている。チリン、とベルが鳴って彼が入ってきた。ジュリアさんの声がいらっしゃいませ、と言う。彼はカウンターの席へ。
「オレがあのくらいの年齢になってもこの店あるかなあ。」
「カオル、もしジュリアさんがいなくてもここへ来る?」
「うーん・・・。コーヒーの味がそのままなら来るかなあ。」
そんな話をしていたらジュリアさんが来た。
「ケーキのお皿、お下げしますね。」
「あの、すっごくおいしかったです。五個くらいいけそうです。」
犬のように素直なヤツ。
「ありがとう。お口に合ってうれしいわ。よかった。」
「急ぎませんからあとでもう一杯おかわりください。」
「ぼくもお願いします。」
「かしこまりました。Eブレンドふたつね。すぐお持ちするわね。」
彼女は皿とフォークをてきぱきと片付けて去った。忙しそうでも笑顔は絶やさない。
「なんかいいな、こういうの。」
「奥さんみたいで?」
「そこまで言わないけどさ。」
「いつかおまえが結婚したら、コーヒーは誰が淹れるの?」
「ああ、それは問題だなあ。淹れてもらうのもうれしいし、自分で淹れるのも好きだからね。でも奥さんが横にいてオレがコーヒー淹れてあげるのってあこがれちゃうなー。」
「そうなってもオレにも飲ませてくれよな。遊びに行くから。」
「お待たせしました。」
コーヒーが来てびっくりした。
「あ、どうも。」
ジュリアさんは、コーヒーと共に新しいグラスも持ってきた。すっかり氷の溶けた水を新しいものと取り替えてくれたのだった。
「あの、ユトリロはお好きなんですか?」
カオルが訊いた。
「大好き!どうしてわかるの?」
「さっき、洗面所に飾ってありましたから。」
「あ、そうよね。カオルくんも絵が好きなの?」
「ええ、ユトリロは一番好きなんです。」
「だったら来週の日曜日にNHKでユトリロやるの知ってるかしら。」
「『新日曜美術館』ですか?」
「そうそう。見なくちゃね。」
「よかった、教えてもらって。ありがとうございます。」
カオルがうれしそうなのでおとなしくしていたが、ひとこと言わなくちゃ。
「こいつも絵を描くんですよ。」
ジュリアさんは目をキラキラさせた。
「そうなの?ステキね。どんなのを描くのかしら。見たいわ。」
「いや、見せられるようなものじゃないんです。」
「今度機会があったら是非。きっとやさしい感じの絵ね。」
カオルの頬がすこし赤くなった。じゃあ、ごゆっくり、と言って彼女は戻って行った。
「じゅん、日曜日テレビ見せて。」
「どうぞ。よかったじゃん、シュミが合って。」
「それにじゅんがテレビ持っててよかった。」
ぼくらは来たばかりのアツアツのコーヒーをすする。深炒りの、うまいコーヒーだ。カオルはコーヒーカップを置くと、水のグラスをクルッと回した。氷が動く。
 ぼくらはしばらくのんびりとしていたが、二杯目のコーヒーももうなくなりそうだ。
「カオル、行こうか。」
「うん。」
伝票を持ってカウンターへ行く。皿を片付けていたジュリアさんがこちらを向いた。
「ありがとうございました。」
本当にいい笑顔だ。
「ごちそうさまでした。」
伝票と代金を渡すと、小さな手で受け取った。
「あの、ここのコーヒーは自家焙煎なんですか?」
カオルが訊いた。
「ええ、小野寺くんのおとうさまがね、炒ってるの。」
「あ、そうなんですか。すごくおいしいから。あの、淹れ方も上手だし。」
「どうもありがとう。小野寺くんに伝えてもらうわね。おとうさま喜ぶわ。」
「豆を分けていただくことは出来ませんか?」
今日のカオルはいつもより積極的だった。
「あのね、Eブレンドだけならお分けしているの。」
「ほんとですか?やったー、く、ください。」
「よかったなカオル。」
「うん!」
あからさまな喜びかたにジュリアさんはクスッと笑った。
「どのくらいお持ちになる?」
「えーっと、300グラムくらいかな。」
「300ね。お挽きした方がよろしいかしら。」
「いえ、そのままでいいです。」
「今ご用意しますから少し待ってね。」
彼女はカウンターの奥で大きなガラス製の密封容器から豆を出してはかりに乗せている。
「じゅん、これからはずっとここの豆だよ。」
「そうなりそうだね。」
少し待つと、彼女は豆を密封してからきれいな紙袋に入れてくれた。
「お待たせしました。ありがとう。またお越しくださいね、じゅんくん、カオルくん。」
「はい。ごちそうさまでした。」
ドアを開けるとベルが鳴る。チリン。ジュリアさんがもう一度、ありがとうございました、と言う。店を出ると、らんまるが立ち上がって大歓迎のしっぽ。
「らんまる、長らくお待たせー。」
カオルが抱きつく。ぼくも頭をなでる。カオルはベンチに座ると、デイバッグの中へコーヒー豆をしまった。
「十二時半か。」
「おまえ、バイトまでどうする?一度アパートに戻るの?」
「六時からだからなあ。ねえ、レンタルビデオ屋に行ってもいい?」
「いいよ。」
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by whitesnake-7 | 2007-12-23 07:07 | 6.~10.

9.

 坂をおりて行くとバス通りに出る。バス停ひとつ分歩けばレンタルビデオ屋がある。
「おまえ、行ってきていいよ。オレはらんまると待ってるから。」
「そう。じゃあ行ってくる。」
カオルは店に入って行った。ぼくは花壇の端に腰掛ける。らんまるはぼくの顔を見ている。
「座っていいよ。画家のおにいちゃんはCDを借りに行ってるから。」
頭をなでる。らんまるが舌を出してハアハアしている顔は、笑っているように見える。
「おまえはしあわせそうだね、らんまる。」
人通りは少ない。街中と違って静かなものである。少し行ったところに、カオルとぼくとまーちんの行っていた高校がある。都立の商業高校だ。そこの情報処理科に通っていた。カオルの父親は転勤が多かったので、カオルが高校受験の頃にちょうど東京にいなかったらぼくはカオルに会うことはなかったのかもしれない。まーちんも今はひとりで町田に住んでいるが、当時は奥多摩に近い実家から通っていたっけ。
「らんまる、おまえがまだ生まれてない頃を思い出してたよ。」
らんまるはぼくの足元で匂いを確認している。
「じゅん、お待たせー。」
「ずいぶん早かったね。」
「ホール&オーツとビージーズ借りてきたよ。ねえ、ガッコー、見ていこうよ。」
ぼくらは信号を渡って、高校の敷地沿いの道を歩いた。
「なつかしいねー。しょっちゅう通るけどさ。」
「中には入らないもんなあ。もう知ってる先生だっていないだろうし。」
「はいれるとしたらどの部屋に行きたい?」
「コンピューター室か・・・図書室だな。」
「図書室、居心地良かったっけねえ。じゅんが調べ物してるあいだずっと昼寝してた。」
「校庭、人少ないね。」
「オレ、体育キライだったなー。」
「カオルは体育キライだったねえ。オレもそんなに好きじゃなかったけど。」
「まーちんはスポーツなんでも出来たよね。」
「そしてすごくモテた。」
「カッコよくてスポーツが出来るんだからもてないワケないよね。」
まーちんがプロデビューしたら、という勝手な想像を話しながら、高校を通り過ぎた。
「カオル、布袋さん見て行かない?まーちんの成功祈願しつつ。」
「ホテイさん?」
「すぐそこだよ。と言っても四、五分くらいかな。」
信松院というところに布袋尊がいる。お正月などに七福神めぐりなどする人が多いが、そのうちの布袋様がここからすぐのところにあるのを思い出したのだった。坂を下って行く。ぼくらは布袋様にお賽銭をあげて、まーちんの成功を祈った。
「じゅんはこういうトコよく来るの?」
「ここへは去年の花祭り以来だな。正月にも来なかったし。」
「花祭りってなに?」
「四月八日がお釈迦様の誕生日なんだよ。お釈迦様の像に甘茶をかけてお祝いするの。」
「先月じゃん。」
「そう。でも今年は来なかった。」
「来年来るんだったら言ってよ、オレも来るから。なんかおもしろそう。」
「じゃあ来年忘れなかったらね。」
そんな話をしながら東へと進む。らんまるもしっぽを左右に振って軽快に歩く。
「じゅん、急にカラアゲ・モードになることない?」
「食べたくなってるワケね。」
「そう。どこかでゲットしてさあ、アパートに戻って昼食兼夕食にしない?そうすればらんまると一緒にいながら食べられるし。」
「いいよ。どこでゲットするの?コンビニかホカ弁?」
「コンビニマンとしてはホカ弁のほうがうれしいな。」
「OK。カラアゲ弁当ね。そう言われると食べたくなるもんだね。」
らんまるは時々小学校帰りの子供に取り囲まれるハメにあいながら、ぼくらはホカ弁を買ってアパートへ帰った。

「おまえ、部屋に行ってこなくていいの?」
「なにしに?」
「なにって・・・。留守電を確認するとか。」
「どうせ一件もないもん。あとでいいよ。」
「妙に神経質な面があると思うとそういう大雑把なトコあるよね。おもしろいよ。」
「あ、らんまるは土足か。」
「タオルで拭くからちょっとそこにいて。」
部屋に入り、留守電を解除する。
『用件は、一件です。』
タオルを濡らしてしぼる。
『町矢でーす。けっこういいカンジに、えーと、うん、あとで話します。七時か八時頃に行きますんでそれまでらんまるをヨロシク。じゃあ。』
「いいカンジってなんだろう。」
カオルはぼくからタオルを奪い取って、らんまるの足を拭いている。
「デビューとかだったらもっと違う言い方をしそうなもんだけど。」
「じゅん、するどい。でもいいカンジなんだからいい方向なんだよね。」
「そうだね。」
らんまるのリードをはずす。らんまるは全身をブルブルッとやって、まるで風呂上りみたいだ。
「じゅん、コンポ借りていい?ビージーズかけて。」
カオルから受け取ったCDをデッキに入れる。
「ねえ、『NIGHT FEVER』が聴きたいの。十八曲目。」
「請け賜りました。」
実はぼくもこの曲は好きである。ギブ兄弟の歌声は独特だ。
「カオル、なに飲む?お茶か紅茶かウーロン茶・・・牛乳かインスタントコーヒー。」
「ウーロン茶がいい。」
ふたりで手を洗って、ぼくは冷蔵庫から缶のウーロン茶を取り出す。めったに缶の飲み物は買わないのだが、これは一階の吉田さんにケースでもらったものだ。らんまるは水をシャパシャパと音をたてて飲んでいる。それを横目に見ながらグラスをふたつ出して氷を入れる。カラン、といい音がする。ウーロン茶を注ぐ。ひとつをカオルに渡す。
「さんきゅー。歩くと喉渇くねえ。」
カオルはグラスを回しながら『NIGHT FEVER』のリフレインと一緒に鼻歌を歌っている。
「らんまると別れるの、さびしいなー。」
「まあ、会いたければまーちんのところへ行けばいいわけだし。」
「じゅんも一緒に行こうよ。」
ふたりでらんまるの傍に座り込む。黒い背中をなでる。カオルは頭をなでる。
「らんまる、にーちゃん達のこと忘れるなよ。オレがカオルでこっちがじゅんだよ。」
「なあ、別れを惜しむのもいいけど、メシ食わないと。」
「おおっ、バイトがあるんだった。」
らんまるの肩をポンポン、とたたいてから立ち上がったらカオルも同じことをした。
「おおっ、『TOO MUCH HEAVEN』、いいねえ。誰がこの邦題つけたんだろうね。」
「『失われた愛の世界』でしょ?」
「朝聴いたら目覚めがよさそう。」
カオルはホカ弁を取り出しながら天井を見上げてそう言った。ぼくは冷蔵庫からウーロン茶をもう一缶出して、カオルとぼくのグラスにそれぞれ注ぎ足した。
「じゅん、本当にカラアゲでよかったの?」
「どうして?」
「オレに合わせてくれるからさあ。」
「合わせたっていうか、オレも食べたくなったから。なに気にしてんだよ。」
「じゅんってお人よしだから。」
「オレ、お人よしか?そんなこと言われたことないよ。」
食べている時のカオルは子供みたいでおもしろい。・・・と、ぼくは思う。
「らんまると写真撮ってもらってよかったね。」
「ああ、オレもカメラ買おうかなあ。花崎さんのアヤメを見たらなんだかそう思ってさ。」
「ああ、あれかわいい花だったね。そうだ、土曜日と日曜日だよね、オーナーの山草展。」
カオルはデイバッグからあのハガキを出した。写真なしの、一色刷りの案内ハガキ。
「ジュリアさんの行きそうな時間に行きたいんだろ?」
「いい?」
カオルははずかしそうにご飯をほおばった。
「いいよ、いつでも。だけどどっちの日に行くの?」
「日曜は例のテレビ見るから。夜に再放送があるけどバイトだろうし。土曜でいい?」
「了解。」
ぼくがビデオを持っていれば録画してあげるところだが、あいにく持っていない。
「カオルは天然記念物だな。テレビもビデオもケータイも持ってない、新聞もとってないし車の免許も取らない。」
「じゅんだってケータイも新聞もないじゃん。それにディズニーランドにもまだ行ったことないし。」
「ディズニーランドねえ。」
「でもさ、彼女とかできて、一緒に行きたいって言われたら行くでしょ?」
「どうかな。」
「だって、オレの山草展にさえ付き合ってくれるんだもん。」
「ああ・・・どうしてだろう。おまえは一緒にいても疲れないし。」
「カラアゲうまかった。ごちそーさま。」
「オレも終了。」
「ねえ、今度はホール&オーツにしていい?」
カオルはCDを取り出す。ぼくはビージーズのCDをはずす。
「『SARA SMILE』から始まるぞー。」
「これ、ベスト盤なの?」
「そう。らんまるー、聴いとけよ。『SARA SMILE』はいいぞー。」
カオルはらんまるの前にしゃがみ込む。らんまるも起き上がって座る。
ぼくが弁当の容器を細かくちぎるのを見て、カオルがそばに来る。
「じゅんってマメだよねえ。こうすると小さく捨てられるもんね。」
「カオル、空き缶とかペットボトルたまってたら持ってきていいよ、一緒にリサイクルに出すから。」
「うん。でもそんなにたまってないよ。じゅんっておにいちゃんみたい。」
「おまえ、おにいちゃんじゃん。」
言ってなかったが、カオルには双子の弟がいる。響と書いてヒビキと読む。そして妹もひとりいる。珠樹と書いてタマキと読む。馨に響に珠樹だなんて、両親も込み入った漢字の名前ばかりつけたものだ。ヒビキくんには数回会ったことがある。カオルとそっくりの顔をしている。彼はスポーツマンで、今は勤め先の寮に住んでいて時間があるとサッカーばかりやっているらしい。タマキちゃんは両親と一緒に住んでいる。一度だけ会ったが、カオルには似ていなかった。
「でもカオルって全然おにいちゃんっぽくない。」
「長男はね、おっとりしてるんだって。」
「ひとりっ子みたいな感じがする。だけどおまえのトコはうまくできてるよ、おまえが絵描きでヒビキくんがサッカーで、タマキちゃんがピアノ弾くんでしょ?」
「オレ、ヒビキと違う高校へ行ってよかったよ。体育の時間、比べられちゃって大変だもん。小学校とか中学はなんとかごまかしたけどさ。」
「そういうところは双子って普通の兄弟より辛いかもね。」
「顔もおんなじときてるからさあ。どんくさい方がカオルちゃん、みたいに見分けるんじゃないの?」
「芸術家肌の方が、でしょ。」
「だといいけどね、多分どんくさい方が、だと思うよ。・・・ああっ、じゅん、やっぱりコーヒーが飲みたくない?」
「そう言われると飲みたくなっちゃうんだよ。」
「Eブレンド、淹れてくる!」
「おまえ、時間大丈夫なの?」
「コーヒー飲むくらいは平気そう。淹れて持ってくるよ。」
「さんきゅー。そのあいだに洗濯ができるな。」
「あー、オレもためてるんだ。明日やろうっと。じゃあ淹れてくる。」

「じゅーん、ノックができない。開けてくれる?」
カオルが戻ってきた。ドアを開ける。
「お待たせー。すっげーいい香りだよ。」
背中にデイバッグを背負って、両手にコーヒーカップを持っている。
「おー、さんきゅー。いただきまーす。」
ふたりでEブレンドの試飲だ。らんまるは座ってぼくらを見上げている。
「うーん、うまいね。おまえ、店ができるじゃん。」
「うん、おいしい。これねえ、粉が、蒸らしたらぶわーってなった。」
「ぶわーってね。」
「じゅん、カップ置いといていい?上、閉めてきちゃったし。」
「いいよ。ごちそうさん。」
「借りた本、あとで電車で読むね。じゃあ行かなくちゃ。」
カオルはらんまるのそばに寄って、らんまるの頭に頭突きしてじゃれている。
「らんまるー、画家のおにいちゃんとはもうお別れだよ。またいつか会おうね。」
本当に名残惜しそうである。
「おまえ、バスで行くんなららんまるとバス停まで送るけど。」
「自転車で行くよ。じゃあね、らんまる。」

 その晩、八時過ぎにまーちんが来た。カオルとぼくとヒジカタさんに明太子を買ってきてくれた。気を使わなくていいのに。行く時はバンドのメンバーと一緒だったが、先にみんなを送ってきたらしく、ひとりだった。ヒジカタさんに挨拶をしたいと言うので部屋に行ってみたが留守だったので、しばらくぼくの部屋でお茶を飲みながら話をしていた。いいカンジの話というのは、都内のライブハウスで隔週の週末に演奏することになったというものだった。出演料も少しはもらえるとのことだ。演奏でお金がもらえるということは、曲がりなりにもプロというわけで、まーちんはとにかくうれしそうだったし、まーちんのしあわせそうな姿はぼくにもとてもうれしかった。一杯飲ませたいところだったが、運転を控えているのでガマンしなくてはならなかった。しばらくカオルやらんまるの話をしていたが、まーちんはぼくの就寝時間を気にして、ヒジカタさんが戻って来なかったけれど帰った。らんまると一緒に。
 らんまるのいなくなった部屋は毛布のあったところが空いていて、胸の中にまで隙間ができたような気持ちになった。さっきまで机に向かって原稿を書いている足元にらんまるが寝そべっていたのに。寝ようとして布団に入ってからもしばらく、らんまると一緒に出掛けたことや、彼がエサを食べる姿を思い出したりしていた。カオルも今夜はこんな気持ちになるだろうか。
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by whitesnake-7 | 2007-12-22 07:07 | 6.~10.

10.

   五月二十六日(火)

 原稿を編集部に提出してきた帰りの中央線の中で、ぼくは今朝みた夢を思い出していた。母を亡くしたあの幼い日。朝、目を覚ましても母がいないことに慣れることができなくて、毎朝早く起きてしまっては泣いて父を困らせた。今朝も夢の中の幼いぼくは、母の姿を探して泣き続けていた。どこにいるのか、一体どこに。キッチンにも、風呂場にもいない。外へ出てみても。道のむこうから、今にも手を振りながら笑顔で歩いて来そうな気配さえするのに。じゅん、待っててくれたの、ただいま、と声が聞こえるのに。小さなぼくの頭をなでて、さあ、おうちへ入ろうね、と言いそうなのに。かあさん、と声を出しそうになるところで、いつも目が覚める。

 八王子駅に着いて、改札を出てから少し立ち止まった。今日は駅までスクーターで来たので駐輪場へ行こうとしたが、駅ビルの地下へ行こうという気になった。エスカレーターで地下まで行くと、客を呼び込む声がにぎやかに聞こえてくる。目に映る惣菜、揚げ物の匂い、ざわざわとした人込みの中を通ってまっすぐパン屋へ。焼きたて、と札のついたソフトべーグルをトレーにのせる。プレーンなタイプのと、クルミが入ったもの、ニンジン入りの。クルミのやつはカオルが好きそうだな、と思ってもうふたつ取る。それに、ドライフルーツとナッツを練り込んであるコッペパン型のパンをふたつ。これもひとつはカオル用。
 パン屋を出ると、魚売り場へ行ってみた。鮭の切り身でも買ってバター焼きにしようと思ったのだが、ものすごい勢いのおばさんに押されて鮭を通り過ぎてしまい、戦意喪失して魚はあきらめた。スーパーで買うとしよう。もう一度惣菜売り場を通るとシューマイがおいしそうだったので、1パック買ってみた。温かくてずっしりと重い。こんなところで引き上げることにしよう。
 駐輪場に行き、スクーターに戦利品を載せて帰る途中でヒジカタさんがいた。スーパーの大きな袋を持っていたので、そばに止まった。
「ヒジカタさん。」
声をかけると、驚いてこっちを向いた。
「あら、じゅんくん。今帰り?」
「そうです。重そうですね。荷物だけ載せてってあげますよ。」
ヒジカタさんも乗せてあげたいところだが、原付ではそうはいかない。
「助かるわ、ありがとう。じゃあお言葉に甘えて。」
ぼくは差し出された袋を受け取った。
「ドアの前の棚の中に置いてくれればいいわ。」
「わかりました。あ、昨夜まーちんが来まして、おみやげを預かってますからあとでお渡しします。じゃあお先に。」

 アパートに着いて、ヒジカタさんの荷物を言われたところへ置き、階段をのぼる。カギをあけて部屋に入ると、いつものように留守電を解除する。
『用件は、ありません。』
荷物を置いて、手を洗う。もう三時過ぎ。カオルはバイトに行ってしまったかな。カオルに渡すものがたくさんある。ぼくは受話器を取り、彼に電話してみた。
『もしもーし。』
「お、カオルまだいるじゃん。」
『じゅん?今帰ってきたの?』
「そう。渡すものがあるから行くね。」
『うん。』
ぼくは昨日のカップとCD、まーちんからのおみやげと、さっき買ったものを全部持って三階へ行った。
「カオル、入るよー。」
「どうぞ。おかえり、あれ?じゅん、家出してきたの?」
カオルの部屋にはクラシックの曲が流れていた。
「家出?」
「そんなにいっぱい持ってさ。」
「おまえ、今日バイトは?」
「あと一時間で出掛けるよ。」
「そう。じゃあまだ大丈夫か。これ、借りてたカップ。それとCD。これはまーちんからの明太子。」
「やったー、明太子。そう、昨日留守電入ってて、聞いたよ。ライブハウスでやるんだって?すごいじゃん。」
「そう。うれしくなっちゃってさー。盛り上がりたかったんだけど、運転だから飲ませるわけにもいかないし。カオルにくれぐれもヨロシクってさ。」
「よかったよねー、やっとまーちんの実力が発揮できる場がみつかってさ。」
「今度一緒に見に行こうよ。ところでカオル、もうメシ済んだ?」
「なになに?なにかあるの?」
「たいしたものはないけどさ。」
ぼくが袋から出す前に覗きこんでいる。
「シューマイ!あー、急にシューマイ・モードになった。」
「それまではなんだったの?」
「駅で立ち食いそばにしようかと。」
「ほら、まだ温かいよ。あとはパンのおすそわけね。」
「持つべきものは友だよねー。」
「おまえ、ナッツ好きだろ?これあげる。あと、ソフトベーグルね。」
「さんきゅー。コーヒー淹れるからさ、今食べていい?」
「パンにシューマイで?」
「オレ、組み合わせにはこだわらないから。パンに明太子でも、パンに納豆でも。」
やかんに水を汲みながらたのしそうである。それを火に掛けると、コーヒー豆を取り出す。
「いいよ、オレもこだわらないから。」
ぼくはさっき返したカップを水で軽くすすいだ。
「ベーグルとこっちのと、どっちを食べる?」
「じゅんの食べたいほう。」
「じゃあベーグル。まな板借りるね。」
勝手知ったるカオルの部屋である。どこになにがあるか、大体わかっている。ぼくはパンナイフを出して、ベーグルを横ふたつに切る。トースターに予熱を入れる。
「ニンジンのベーグル、食べてみる?」
「食べてみようかな。」
「ナッツのやつと半分ずつ食べよう。どうせふたつに切るんだもんな。」
カオルがミルをゴリゴリさせているので、話は途中で聞こえなくなった。
「じゅん、らんまるはまーちんが来たらよろこんだ?」
「そりゃあね。二日ぶりのご主人様だもん、うれしそうだったよ。」
「そうだ、あの本少し読んだんだけどさ、犬のデリーが宝物を見つけるところ。」
「ああ、ここ掘れワンワン、みたいな感じでね。」
「らんまると一緒にいたとき、そういうことなかった?」
「そういうことって?」
「ここになにかあるよって言ってるみたいな。」
「本気で言ってるの?」
ぼくは半分に切ったベーグルをトースターに入れた。ふたつしか入らない。
「なんか、本当にありそうな話じゃん。よく思い出してよ。」
カオルはペーパーに折り目をつけて、挽いた粉を入れている。
「よくって言ったって、おまえも一緒にいただろ?」
「そう、一緒にいたときのことはよく思い出してみたの。でもさ、おとといはE-CAFEから帰るとき別々だったでしょ?そのときなにかなかった?」
「うーん・・・。」
確かにあのときはカオルはバイトへ行って、ぼくはらんまると普通に店から歩いて・・・。富士森公園の坂を下って行った。
「そういえば。」
「思い出した?」
「あの、彫刻がある広場あるじゃん。」
「うんうん。」
カオルはペーパーの中にお湯を慎重に注ぎながら、興味津々だ。
「あそこのツツジのところで立ち止まって、しばらく動かなかったかなあ。」
「それだよ。宝物があるんだよ、そこに。」
まるで子供みたいだ。本気らしい。
「でも、ここ掘れって感じじゃなかったけどなあ。」
「今度行こうよ、そこ。案内してよ。」
「掘るつもり?」
トースターの中を覗くと、ベーグルの表面がいいカンジのキツネ色になっていた。皿に取り出して、残りのふたつを入れる。
「カオル、なにつける?バター?」
「うん。」
サーバーの中のコーヒーが、もう少しでふたり分になる。ぼくは冷蔵庫からバターを出す。シューマイを皿に出して、からしを置く。
「うーん、これだと野菜不足だな。ポテトサラダでも買ってくればよかった。」
カオルはコーヒーをカップに注いでから、
「待って、トマトがあるから。」
冷蔵庫を開けて首をつっこんだ。
「あったあった。おおっ、レタスもあるじゃん。いつのだろう。」
「大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、見て、新鮮そうでしょ?フレーッシュー。」
カオルはトマトを洗って左手に包丁を持ち、不器用そうにいくつかに切り分けた。レタスをちぎる。ぼくはそれをのせる皿を出す。
「ほら、いい色合いじゃん。オノデラ・シェフには負けるけど。」
「うん、いいね。」
カオルがドレッシングを出すあいだに、フォークをふたつ出す。あとのベーグルも焼けた。これでOK。
「じゅんのおかげで立ち食いそばから救われました。ではいただきます。」
「いただきます。」
カオルはドレッシングの容器を振っている。ぼくはコーヒーを一口すする。
「ホントおいしいよ、このコーヒー。」
「だよね。オレが淹れたからKブレンドだよ。ベーグルもっちりしてうまい。ナッツ大好き。」
「そうだ、今日編集部へ行ったらさ、原稿増やしてくれって言われた。」
「え、じゅんのコーナー拡大すんの?」
「そういうことみたい。」
「すごいじゃん、おめでと。今度ケーキをおごるよ。」
「E-CAFEのだろ?」
「わかっちゃった?」
「わかるよ、おまえは単純なんだから。早く食べないと遅れますよ、ぼっちゃま。」
「立ち食いそばの時間を計算してあったから平気でございますよ。」
「ならいいけど。」
「ねえ、四時前だっていうのに夕飯を食べる男たちってどう思う?」
「四時前だっていうのに油絵の具のにおいの充満した部屋でひっそりと向かい合って食べる男たち、でしょ?」
「これがニンジンベーグル?普通の味だね。」
「ニンジンの栄養が摂れるのかどうかは期待できないね。」
「少しは摂れるでしょ。繊維質も。」
「カオル、夜は食事できるんだろ?まともなモノ食べろよ。栄養のありそうなモノ。」
「じゅんもね。原稿も増えるんだし。」
「それ、ちょっと心配なんだよなあ。」
「なにが?」
「そんなに書けるのかなって。」
「じゅんなら大丈夫だよ、心配ないって。」
トマトを刺したフォークを振りながら言われても説得力はないが。
「さんきゅー。根拠のない励ましでも少しうれしいよ。」
「根拠がないだなんて。オレの言ったことに今までまちがいがあった?」
「なかったっけ?」
「あったか。でもじゅんは大丈夫だよ、きっと。そうだ、あれ聴いたよ、レインボーの。なかなかよかった。今日のも聴いたよ、録音して、起きてから聴いた。」
「録音してまで聴かなくていいのに。」
「来週アース・ウィンド&ファイアーを忘れないでよ。」
「覚えてるよ、ちゃんと。今度ビージーズも考えておこうかな。」
「マジで?うれしいなー。ねえ、このシューマイどこの?」
「駅ビルの地下。」
「でっかいね。うまい。オレも今度うまいもの探そうっと。」
「たまに行くとおもしろいよね。もうひとつベーグル焼こうか。」
「うん。」
ぼくはクルミのベーグルをもうひとつ出して、トースターのつまみを回しておいてからパンナイフを持つ。カオルが立ち上がってそばに来る。切ったベーグルをトースターに入れる。
「そうだ、絵を見ていい?」
「どうぞ。」
ぼくは窓の近くにある絵の前に行く。見た途端に、今までなかったものが目に飛び込んできた。漆喰の壁の前を歩いている黒い物体。
「カオル。」
「なに?」
「これ、らんまるじゃん。」
「ばれたか。ちょっとアクセントにね。」
相当らんまるを気に入ったらしい。
「その犬を描いたら、すごくいい感じになったと思ってるの。」
「うん、いいよ。すごく引き締まった感じがするし、かわいいよ。」
「よかった。」
「空の色も少し変わった?」
「変えたんだけど、まだ気に入らないんだ。あ、じゅん、ベーグルが。」
おっと、焼いているのを忘れるところだった。ふたりで駆け寄る。トースターを開けると、ちょうどいい加減だった。
「間に合ってよかった。あちちち、はい、カオル。」
「さんきゅー。」
「やっぱトースターから出してすぐ食べるのが一番うまいね。一分でも置くともう違うもん。」
「じゅんってパン大好き人間だよね。じゅんが選ぶヤツっていつもおいしいもん。」
「そういえばまーちんがパン工場でバイトしてたときはよく差し入れてもらったなあ。」
「ああ、昭島の。パンの仕分け、やってたっけねえ。」
「どうしてあんな方まで行ってたんだっけ?あ、桂子ちゃんの家があっちだったんだ。」
桂子ちゃんというのは、まーちんが高校二年のとき付き合っていたコである。
「夏休みのあいだ一緒にバイトしてたんだっけ。」
「あの頃はカオルだって彼女がいたじゃん。」
カオルの彼女はクラスで一番おとなしそうな女の子だった。なのに彼女のほうから告白してきたと言うので、みんな驚いたものだ。
「彼女って言っても、たったの二ヶ月半だよ。じゅんのほうが長続きしたよ。」
そう、ぼくにも彼女がいた。一年ちょっと付き合って、就職活動の時期になって自然消滅的に別れてしまったけれど。
「もう結婚したみたいだって、うわさに聞いたけど。」
「じゅんと結婚すればよかったのにさー。あ、でもオレが困る、かまってもらえないもん。」
「結婚しちゃうと自由に友達付き合いってできないもんかなあ。」
「結婚相手にもよるんじゃないの?ひたすら一緒にいたがる奥さんだったらさー。」
「または、こっちがひたすら一緒にいたくなるような奥さんだったりね。」
「あー、それはそれで・・・うらやましいけど。」
「そろそろ片付けないと。ごちそうさま。」
「ごちそうさま。・・・じゅん、いつもそうやるの?」
ぼくが皿に付いたからしをティッシュで拭き取るのを見ている。
「そう。川を汚さないようにね。」
「じゅんって地球にやさしい生き方だね。ちゃんとリサイクルするし。」
「地球か。地球以外の星へ引越すわけにはいかないから大事にしないとね。」
皿とカップを洗い終えると、カオルが時計を見た。
「ちょうどいい時間だ。よかった。」
「そうだ、オレ、ヒジカタさんに明太子持って行かなくちゃ。」
「そうだ、あれからまだヒジカタさんに会ってないや。じゅん、ついでに山草展のことも言っといてくれる?」
「OK。」
カオルはデイバッグを肩にかけ、カギを探している。ぼくは自分の分のパンを持って部屋を出る。
「じゃあね、帰りは気をつけろよ。」
「うん。」
ぼくが階段を下り始めると、カギを閉めたカオルも駆け下りてきた。
「おまえ、転ぶぞ。」
「平気平気。行ってきまーす。」
子供みたい。
 ぼくは自分の部屋に戻り、まーちんの明太子と山草展のハガキを持って一階へ下りる。ヒジカタさんのドアをノックする。はーい、と声が聞こえる。
「立花です。」
ドアが開く。
「ああ、じゅんくん。さっきはありがとね。とっても助かったわ。」
「どういたしまして。これ、まーちんから福岡のおみやげです。らんまるのこと、ありがとうございましたって、くれぐれもヨロシクって言ってました。」
「まあ、そんなこといいのに。いいの?いただいて。」
「どうぞ。あと、これ・・・よかったら。あの、山草展があるらしいんですけど。」
ぼくはハガキを渡した。
「まあ。いつ?」
ヒジカタさんは、ハガキを目から少し離して見ている。細かい字は見えないのだろう。
「今度の土、日です。市民センターで。ヒジカタさん、お好きだと思ったので。」
「ありがとう。花崎さんと一緒に行ってみようかしら。」
「花崎さんにも言おうと思ってるんですよ。」
「じゃあ私がお誘いしてみるわ。」
花崎さんに言う手間が省けてしまった。
「そうですか。じゃあ、ぼくはこれで。」
「わざわざありがとうね。」
「いえ。」
階段をのぼる。部屋に入ってドアを閉めたら、急に今朝の夢を思い出してしまった。キッチンにも風呂場にも、母の姿はなく、外へ出てみても・・・。あの夢をみると、ひとりでいるのが苦しくなる。カオルはいないし、まーちんに電話してみよう。受話器を取って、ケータイの番号にかける。
『ただいま、電話に出ることができません。』
単調な女の声。そうだ、まだこんな時間だもの、まーちんは仕事中だ。受話器を置く。ああ、らんまるがもう一晩いてくれたらよかったのに。音楽を聴こうとしても、きっと母への想いが強くなるばかりだろう。母の好きだった曲が、ぼくの好きな曲なのだ。ぼくは棚の奥にしまいこんであったワインを出してみる。たしかヒジカタさんが勝沼に旅行に行ったときにくれたものだ。もらったときに少し飲んだだけで、そのままである。そっと栓を開ける。フルーティーな香りがする。ワイングラスなどというものはないので、持っているグラスの中で一番繊細そうなのを奥から出して、洗剤で軽く洗って、よくすすぐ。これでよし。きれいに拭いて、ワインを注ぐ。黄色みがかった透明の液体。一口飲む。強い香りが鼻にぬける。ふう。それほど大きくないそのグラスに残ったワインを一息に飲み干す。おいしいとかおいしくないとか、そんなことはどうでもいい。カラになったグラスに、更に注ぐ。そう、母も時々お酒を飲んでいたっけ。寝る前に少しだけ。父と一緒に日本酒を飲んだり、ウィスキーに氷をたっぷり入れたものだったり、梅酒の水割り、こんな白ワイン・・・でも白ワインよりロゼの方がきれいだから好き、と言っていた。ぼくは、またカラになったグラスにワインを注ぐ。母があんなに早く逝ってしまうとわかっていたら、ぼくはもっと母と一緒にいる時間を大切にしただろう。母が作ってくれた弁当を残すこともしなかったろう。ケガをして心配させるような遊びもしなかっただろうし、もっと早く学校から帰ってきただろう。グラスはカラになり、また注ぐ。もう味はよくわからなかった。小さな子供を残して逝ってしまった若い女の気持ちは一体どんなだったのだろう。大人になった姿を一目でも見たかったに違いない。無念で心残りで心配で・・・。かあさん、もっとよく顔を見せてよ。ここに、ぼくのそばに来て。かあさん、かあさん・・・・・・。
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by whitesnake-7 | 2007-12-21 07:07 | 6.~10.