カテゴリ:1.~5.( 5 )

1.

   五月二十日(水)

 いい天気だ。空が青い。何の本を買うというでもなく本屋に入る。しかし、何も買わないと決めているわけでもない。気に入ったものがありさえすれば読んでみてもいい。ちょっとキレイな挿絵が入っているのがいい。そうしているうち、目にとまった表紙があった。手にとって中を少々確かめさせていただく。こまかい字がぎっしり、難しい字がたっぷり、というのは遠慮したい。そう難しそうな文章ではなさそうだし、表紙の色合いがぼく好みである。この挿絵の感じなら、ながめるだけでもひまつぶしにはちょっと良さそうだ。購入。

 カオルとぼくは同じアパートに住んでいる。
カオルがいる部屋に通っているうちにこのアパートと大家さんの人柄の良さに惚れ込んで八王子に引っ越してきてから、もう三年になるだろう。ぼくは二階、カオルは三階の部屋である。
「カオル、起きてる?」
ぼくは小さめにノックする。もうお昼に近い時刻だけれど、カオルは朝が遅いから。
「起きてるよ、どうぞー。」
いつもの人なつこい声だ。木造の小学校のような廊下から、古い木のドアを開けてカオルの部屋へ入る。
「じゅん、いいタイミング。今コーヒーを淹れるトコだよ。飲むでしょ?」
ぼくはあからさまにうれしそうな顔をしてしまった。うん、とうなずいて。そして、彼のイーゼルの前へ行く。カオルの油絵。カオルの絵はぼくの心を明るく、やわらかくしてくれる。
「なんだか気に入ったブルーがでなくて。」
カオルはコーヒー豆のストックを取り出し、変なスプーンで量ってから手動のミルへ入れた。彼は左利きである。字を書くときだけは右で書いているが、絵は左手。
カオルの絵はいい。写実的すぎるものは苦手だし、かといって抽象的すぎてワケわかんないのも好きじゃないから。いつもぼくがそう言うと
「ありがと。そんなふうに言ってくれるのって、じゅんとヒジカタさんだけだよ。」
ヒジカタさん、というのは、ここのアパートの大家さんをしている七十代の女性で、一階の部屋で一人暮らしをしている。
透明感のある、深いブルーの空。建物の白い漆喰、赤茶と栗色のレンガ。それらを眺めていると、カオルが喫茶店をやりたかった夢を話し始める。丁寧にコーヒーを淹れながら。
「店にはオレの好きな音楽が流れててさあ、壁には絵が何枚か飾られてるの。」
サーバーの中のコーヒーがもう少しでふたり分の量になる。いつものようにぼくは棚の中から勝手にカップをふたつ取り出した。カオルはカップをお湯で温めてから、コーヒーを大切そうに注ぎ分けた。
「じゅんは原稿を仕上げに来るんでしょ?いつまでも窓際の席に座ってさ。」
そう言って片方のカップを差し出す。透き通ったブラウンの液体に天井の照明が揺れている。
「おまえの店はきっと居心地がいいから、締め切り前には席を予約しなくっちゃ。」
カオルは机の上からCDを選び出し、デッキにセットした。
「なつかしいだろ?このクリストファー・クロス。」
そうそう、彼はこの『WHAT AM I SUPPOSED TO BELIEBE』が好きだ。天使のようなクリストファーの声を聴きながら、カップを片手にカオルは窓辺へ行った。アパートの庭には最近植えられた木が風を受けていた。
「じゅん、行きたい店があるんだけどつきあってくれる?」
「いいよ。」
[PR]
by whitesnake-7 | 2007-12-30 07:07 | 1.~5.

2.

 ぼくらはバスに乗って、カオルが見つけたという店へ向かった。ぼくは車の免許を持ってはいるが、車は持っていない。小さなスクーターで用は足りてしまう。そしてカオルはといえば、自称メカ音痴とあって、もっぱら自転車を愛用していた。そんなふたりだから、一緒に出掛ける時はいつもバスと電車、もしくは徒歩だった。
「やっぱ平日の昼間ってバスもすいてるよね。」
市民体育館前でバスを降りた。少し歩いていくとカオルが言った。
「あれだよ、最近見つけたんだ。来てみたかったの。次のバス停から見えるんだ。」
白い建物である。だんだんと近づくと、赤い日よけの下に落ち着いた緑色のドアが見えてきた。ほのかにコーヒーの香りが漂っている。
「E-CAFEって書いてあるよ。カフェなんだ。」
「じゅん、先に入ってよ。」
「おまえってこういうとき妙に臆病者なんだよね。」
ぼくは真鍮の取っ手をゆっくりと引いた。ドアに付いていたベルがチリン、といい音色だ。
「いらっしゃいませ。」
明るい声でそう言ったのは、三十歳くらいの女性だった。カオルとぼくを交互に見つめて、
「初めていらしてくれたお客様ね、ようこそ。お好きなところへおかけ下さい。」
「あ、はい。」
カオルがぎこちない返事をしたので、ぼくは吹き出してしまった。奥のほうへ行ってみようか、と彼を促して、窓辺の席に座った。
「カオルが好きそうな木のテーブルだね。」
「うん。」
まだ緊張しているらしい。椅子も座り心地のいい木製のものだ。店の中はテーブルが七つくらいあるだろうか、その半分くらいにお客さんがいた。カウンター席もいくつかある。
「コーヒーのいい香りだね。オレの部屋みたいに油絵の具の匂いもしないし。」
さっきの女性がグラスで水を持ってきた。ずっとニコニコしている。
「食事はできますか?」
ぼくらは、日替わりランチ(10時から14時まで)をゆっくりとたのしんだ。とても家庭的な料理と、店員の女性のてきぱきとした、それでいてあたたかいサービスにすっかりくつろいでいた。
「今度まーちんにもこの店教えてあげようよ。」
「ああ、まーちんは彼女と来るのにいいかもね。」
店にいるお客さんはみんなしあわせそうに見えた。
「お待たせしてごめんなさいね、コーヒーをお持ちしました。お名前をきいてもいいかしら、私はジュリアって呼ばれてるの。」
「ぼ、ぼくはカオルです。」
「じゅんです。」
「カオルくんとじゅんくんね。私、人の名前覚えるの得意なの。あいたお皿をお下げしますね。ごゆっくりどうぞ。」
ぼくは、しげしげとコーヒーカップを見ているカオルに言った。
「なんで城石です、って言わなかったの?」
「だって・・・・なんとなく。」
「なんか、女の人に『じゅんくん』なんて言われたの久しぶりだなー。」
「え、ヒジカタさんにいつも言われてるじゃん。」
「あ、そっか。ヒジカタさんも年上の女性だよな、失礼しちゃった。」
「じゅん、これ、すっげーうまい。はやく飲んで。」
「うん、うまいね。」
カオルは食べ物に関してはあまりうるさくないがコーヒーは大好きで、自分で知る限りの店を飲み歩いて、ここ、というトコロから豆を買っている。カオルが淹れてくれるコーヒーのおかげで、ぼくはファミリーレストランでいくらでもおかわりしていいコーヒーが飲めなくなった。
「いらっしゃいませ。」
ジュリアさんの声がして、老紳士がカウンター席に座った。
「オレもあんなふうにおじいちゃんになってもコーヒーを飲みに出掛けたいな。」
しばらく話しながらコーヒーを飲んでいると、カオルが腕時計を見た。
「あれ、もうこんな時間?オレ、バイト行かなくっちゃ。」
カオルは立川のコンビニでバイトをしている。
「今日バイトの日だっけ?」
「違うんだけどさ、今日は入ってくれって言われてんの。」
「忙しい画家だねえ。」
「絵も描くフリーターって言ってよ。」
ぼくらはコーヒーを飲み干すと、愛着のわいた椅子から立ち上がった。カウンターへ歩いていくと、さっきの老紳士と話をしていたジュリアさんがこっちを向いた。
「ありがとうございました。えーっと、カオルくんとじゅんくん。」
彼女はカオルから伝票とお札を受け取ると、おつりを出しながら言った。
「おふたりは学生さん?」
「いえ、もう二十代後半ですよ。」
「あら、学生さんだと思ったわ。私ね、弟の名前がじゅんっていうのよ、純粋の純。」
「ぼくはウルオウっていうほうのです。」
「そう。カオルくんは?」
「ぼくは、えーと、カオリの上に声と、役者の役のツクリを書くヤツです。」
「ああ、難しい字のカオルくんね。おふたりとも、よろしかったらまた来て下さいね。」
「絶対また来ます。ごちそうさまでした。おいしかったです。」
ジュリアさんはとてもうれしそうに笑って、お辞儀をした。
[PR]
by whitesnake-7 | 2007-12-29 07:07 | 1.~5.

3.

 カオルは駅へ、ぼくはアパートへ戻るため、それぞれバスに乗った。もう帰宅の学生がかなり乗っていた。
 アパートに入り、郵便受けの中を確認していると、ヒジカタさんに声をかけられた。
「おかえり、じゅんくん。ねえ、悪いんだけどお願いしてもいいかしら、電球が切れちゃってるの、高くてとどかないのよ。たのんでいい?」
「あ、いいですよ。」
ぼくはヒジカタさんの部屋に入り、電球を取り替えるために椅子にのぼった。
「じゅんくんもカオちゃん(カオルのこと)も背が高くていいわねえ。助かるわ、ありがとね。」
いえいえ、と言いながら古い電球を渡す。背が高い、と言われてもそんなに高いワケではない。百七十くらいでは、今どきはそれほど高いほうではない。ヒジカタさんにはときどきこんな小さな頼まれごとがあるが、いつも顔が合うとごはんのおかずをくれたり、お世話になっている。今日も肉じゃがをいただいてしまった。

 カギを開け部屋に入ると、まず留守番電話を解除する。
『用件は、二件です。』
『えー、お疲れさんです、FMの荒井ですー。明日の録りなんですがぁ、一時間遅れになりますのでヨロシク。』
ぼくはローカルのFMラジオにちょっぴり出ている。ぼくの幼なじみがそこの放送局に勤めていて、なぜかぼくにコーナーを担当してくれと言ってきたのがきっかけだった。約1時間の番組を月曜から金曜までやっていて、週に一度、一週間分を録音しに行くのである。
『町矢でーす。あのさー、オレ、ケータイなくしちゃって。だからしばらくはウチのほうへ電話してくれる?・・・・そんだけ。じゃあね。』
まーちんである。ぼくとカオルはケータイは持たないのでそれほど電話魔ではないが、まーちんはしょっちゅう電話をしたり人と一緒にいたりする。
 まーちんとカオルとぼくは高校時代からの付き合いだ。カオルとぼくは友人が多いほうではないけれど、まーちんはとにかく交友範囲が広い。学生時代の友人、会社関係、趣味の関係まで幅広い。彼は歌の才能もあって、会社の友人達とプロ並みのバンドをやっている。
 カオルのほうは、一見天真爛漫なのに神経質なところがある。子供の頃、親の仕事の都合で転校が多かったせいもあるらしい。カオルがコンビニでバイトをしているのは、まーちんの知り合いがやめた後に人が見つかるまでのツナギだったのだが、とにかくそこの店長という人に気に入られてしまい、(就職先に恵まれなかったこともあって)高校時代から今に至っている。カオルがどんな人間かわかってしまえば、彼を気に入らない人はいないだろう。まっすぐなココロを持った、いいヤツだから。
 ふと、午前中に買った本の存在を思い出した。机の書類の上に置いてある。カバーをちょっとはずして、あの時本屋で目にとまった表紙をもう一度眺めてみる。いい色だ。何の絵というわけではなく、絵の具をペインティングナイフで重ねたような。その色のひとつひとつが独特で、なつかしいような色だ。今日は原稿は書かないと決めたので(締め切りもまだ先だし)、夜までその本を読むことにした。

 夜、バイト帰りのカオルが来て、本に没頭していたぼくを現実に戻してくれた。
「店長がさぁ、弁当くれたんだよねー。売れ残りのヤツだけど、食べる?」
「ラッキー、食べる食べる。そうだ、ヒジカタさんが肉じゃがくれたんだ、おまえと食べてくれって。」
「おーっ、すっげー。アイラブ肉じゃが。」
「チンしてくる。何飲む?ウーロン茶でいいよね。」
カオルがコンビニの袋から弁当をガサガサ出しているうちに、ぼくは肉じゃがをレンジに入れた。
「お、ゴーカじゃん、幕の内?」
「シャケがでっかいだろ、それが売りなの。でも売れ残ったけど。」
下を向いてくっくっ、と笑う。
「おまえ、部屋に戻ってないの?」
「そう、ここへ直行。だって上に行ってまた下りてくんのめんどうじゃん。」
「うん。まーちんから電話があったよ、ケータイなくしたんだって。」
「また?このまえもなくさなかったっけ?・・・ねえ、この本なに?」
机の上の本。
「それ、表紙の色がきれいなの。午前中に買ったんだ。」
カバーを外してみせる。
「表紙がきれいだから買ったの?」
「直接的な理由はそう・・・かな。」
「間接的には?」
「間接的には?そうだなあ、挿絵がオレの好みに合ったから。」
「じゅんって文章書く仕事してんのに、表紙と挿絵で決めるの?」
「まだあるよ、難しい漢字がいっぱい並んでなかったから。」
「小学生か?」
言われているうちに、おかしくなってしまった。
[PR]
by whitesnake-7 | 2007-12-28 07:07 | 1.~5.

4.

   五月二十一日(木)

 「さて、おハガキを一枚紹介しますね。吉祥寺のミーコさんから。〔立花さん、いつも車の運転をしながら『立花潤の立ち話』聴いていまーす。立花さんの声って、すっごくいい声ってわけではないけれど、なんだかホッとするしゃべり方ですね。私は二ヶ月前くらいからのリスナーですが、立花さんはどうして最近の曲をかけないのですか?〕ミーコさんありがとう。えー、『すっごくいい声ってわけではない』ってトコが正直でいいですねえ。なぜ新しい曲をかけないかというと、特にこだわりはないんだけど、このコーナーでかけなくても流行の曲ってどこかで毎日かかるでしょ?あと、好きに選曲していいよってコトでこのコーナーを引き受けたから、ぼくがいいと思ってる曲をみんなにも教えてあげたいんだよね。そんなトコかな。今日ラストにかけたい曲は長いんで、話はこのへんで切り上げなくっちゃ。曲はレインボーの『RAINBOW EYES』。録音できる人は、ぜひ夜になってからもう一度聴いてもらいたいと思います。ぼくの大好きな一曲、『RAINBOW EYES』です。どうぞ。」
こんなのを一週間分録る。

 八王子駅の北口からバスに乗る。前の方の席に座る。見慣れた景色が流れていく。甲州街道の大きな工事のために道は混んでいた。停止したバスから歩道を見下ろすと、小さな赤いカバンを持った女の人が目にとまった。あれ?あれはE-CAFEの・・・ジュリアさんだ。こんなところで見かけるとは。店にいた時は髪をうしろにまとめていたけど、思ったより長いんだな。と、そこでバスが走り出した。ジュリアさんが後ろの方へと小さくなっていく。今日は店は休みなのかな。ああ、おいしいコーヒーが飲みたくなった。

『用件は、一件です。』
一件でも入ってる方がマシである。
『町矢でーす。ごめん、いないんだったらカオルの方にかけてみるわ、それじゃ。』
棚の上の時計を見る。もうすぐ六時。カオルがバイトから帰ってるかもしれない。ぼくは三階へ行ってみた。カオルの部屋のドアの前にダンボール箱がふたつ置いてある。オトドケモノですな。とすると、留守ってことか。ぼくは今のぼった階段を二階へと下りる。その時、一階から声が聞こえた。
「部屋の前に置いといてもらったから。」
「ありがとうございますー。」
ヒジカタさんとカオルだ。ちょうど帰ってきた。
「おっ、じゅん。」
「おかえり。オレもさっき帰ってきたとこ。バス一緒じゃなかったね。」
「ビデオ屋にいたの。」
「おまえテレビもビデオも持ってないじゃん。」
「まーちんがビデオ屋にいるって言うから行ってきたの。」
さっきの留守電はそれだったのか。ぼくらは三階へのぼった。
「おー、食糧入ってるかも。」
カオルとぼくは箱をひとつずつ持って部屋に入った。けっこう重かった。
「おふくろさんからだ。」
「うん、またどうでもいいモノまで入ってんだろうなぁ。コーヒー淹れるね。」
お湯を沸かし、カオルはコーヒー豆をミルで挽き始める。ぼくがカップを出す。
「まーちんさあ、オーディション受けるんだって。」
「へえー、やっと?もっと早くすればよかったのにさー。」
「そうだよね。それでさー、泊まりになっちゃうから、らんまるを預かってくれって言うんだよね。」
「ここで預かるの?」
らんまるというのは、まーちんが飼っている黒いラブラドール・レトリバーのことだ。
「犬、OKだっけ?ここ。」
「ヒジカタさんに言ったの、すっごくおとなしくてオリコウだからお願いしますって。」
「そしたら?」
「一晩くらいはいいって。でね、今度の日曜だから、朝のうちに連れてくるって。」
カオルは丁寧にコーヒーにお湯を注ぎ始めた。サーバーに褐色の液が落ち始める。
「そうだ、さっきE-CAFEのジュリアさんを見かけたよ。」
ぼくは思い出して言った。
「実はさっきまーちんと行こうとしたの。でも一応確かめた方がいいかなと思って電話してみたんだよ。そしたら、木曜は定休だった。まーちんには場所教えといたよ。」
コーヒーを淹れ終えると、ふたりでおもむろにひとくち飲んでから、カオルはさっきのダンボール箱を開け始めた。
「あーあ、どうしてウチのおふくろって隙間を埋めるために駄菓子を詰め込むんだろう。」
カオルの親には会ったことがないけれど、想像したらほほえましくなって笑ってしまった。
「ちょうどいいや、コーヒーのおつまみにクッキー食べる?お、ピスタチオがいいか。ちょっと待てよ、あやしい容器を発見!これはきっと煮物だよ・・・ほらね。」
「おまえのおふくろさんっていい人だよな。」
「そのいい人からじゅんくんへなにか来てますよ。ハイ。」
「オレに?」
白い紙袋に『潤くんへ』と書いてある。開けてみると、新しい靴下が二足とハンカチ三枚。
「オレがじゅんにお世話になってるからってコトだろ?」
彼のおふくろさんはいつもぼくとヒジカタさんにまでなにかを送ってくれる。煮物のあとに出現した五目おこわで、ふたりの夕食となった。
「・・・ねえ、じゅんのおふくろさん、何歳で亡くなったんだっけ?」
「二十九かな。」
「おやじさん元気なの?」
「うん。再婚する気もないみたいだね。」
おふくろが死んだ五年後くらいから縁談はいくつもあったが、おやじは今でも独りでいる。おふくろと暮らした横浜を離れてしばらくは福生に住んでいたが、今は栃木で小さな歯科をやっている。ぼくは栃木へ行くつもりはなかったので、福生からここへ来た。
電話が鳴った。
「じゅん、出てくれる?」
「城石の部屋ですが立花です。」
『じゅん?オレだけど。』
まーちんの声だった。
「おう、元気そうじゃん。」
『まあね。さっきカオルに会ってさあ。』
「聞いた聞いた、ついにオーディション受けるんだって?」
『そうなんだよ、悪いけどらんまるのこと頼むね。日曜に行くから。あ、あのさ、ケータイ見つかったから。』
「よかったじゃん、カオルにも言っておくよ。」
受話器を置く。
「まーちん?」
「そう。らんまるをヨロシクってさ。それと、ケータイ見つかったんだって。」
[PR]
by whitesnake-7 | 2007-12-27 07:07 | 1.~5.

5.

(三日後)五月二十四日(日)

 朝午前五時半ちょっと前にまーちんが大きな黒い車でやってきて、らんまるを預けて行った。ヒジカタさんが起きてきて、大きなワンちゃんねえ、と頭をなでてくれた。めずらしく早く起きたカオルと一緒にらんまるを3階へ連れて行く。カオルは、部屋の前でらんまるに言った。
「今日と明日はここにいてね。わかった?」
らんまるはきょとん、としていたが、おすわり、と言われて素直に座った。リードはドアのノブにつないだ。これだけ大きな犬だととても存在感があるものだ。ぼくとカオルはまーちんから渡された袋の中から毛布を取り出してそこへ広げた。らんまるは不思議そうにそれを見ていた。
「じゅん、このシート、ここに置いておくだけでちゃんとトイレってわかると思う?」
「だと思うけど・・・。まーちんは結構ちゃんとしつけてるから大丈夫じゃない?」
「らんまる、いいか、したくなったらここでしてくれよ。はみだしちゃダメだぞ。」
犬の高さになって説教しているカオルを見ていたらおかしくなって笑ってしまった。カオルがらんまるの水を汲んでいるうちに、エサの袋を覗いてみた。その中にまた容器がふたつ入っていた。ひとつはエサの皿、もうひとつはプラスチックのコップだった。なにか書いてある。八分目あたりに線が引いてあって、『この線まで、朝晩7時ごろ。ヨロシク』。なるほど。
「じゅーん、これで足りる?」
カオルが容器に水を汲んできた。
「らんまる、長旅で喉が渇いただろ?飲んでいいよ。」
らんまるは、せっかくだからいただきます、という感じでチャプチャプと少し飲んだ。
「カオル、これ見てよ。」
ぼくはさっきのコップを見せた。
「まーちんらしいね。でもこの線まででいいの?少ないね。これは作家のおにいちゃんに預かってもらおうね。まだ時間があるから。じゃあ、オレ寝る。」
「おやすみ。」
かわるがわるらんまるをなでて、カオルは部屋へ入り、ぼくは階段を下り始めた。ここまではスムーズに事が運んだのに、その後だった。ぼくが階段の踊り場を折り返したあたりで、らんまるがクーンクーンと鼻を鳴らした。まずい、とぼくは階段を戻った。カオルも部屋から出てきた。らんまるはうれしそうにしっぽを振る。
「らんまる、静かにしててくれよ、鳴くのは禁止!」
カオルの説教をうれしそうに聞いている。
「無理だよなー、知らないトコに連れてこられて、不安なんだろうなあ、まーちんもいないし。」
「じゅん、らんまるが慣れるまで、って言うかオレが起きるまで、らんまるを部屋に置いておけない?」
らんまるはぼくの部屋に来ることになった。
「狭いけど、がまんしてくれる?」
らんまるは聞き分けのいい子供のようにしずかに自分の毛布にのって、ぼくの机のにおいをかいでいる。部屋にいるならリードははずしておこう。水とトイレシートをそばに置いて、ぼくはもう一度らんまるのあたまをなでて、机に向かった。ぼくが逃げない事を確認したらしく、彼は毛布の上にゆっくりと寝そべった。黒い毛がつやつやと光っている。生きている動物がそばにじっと寄り添っているだけで、なぜかいつもと違う。ぼくが見下ろすとらんまるのその黒い瞳がぼくをチラッと見上げる。しっぽがパタン、と動く。らんまるは決してぼくの仕事の邪魔をしなかったが、ぼくは結局原稿を書く手が進まなかった。原稿をあきらめたぼくは、あの本の続きを読み始めた。ときどきらんまると顔を見合わせては頭をなでて、本を読み終えた。いい具合に、らんまるの朝食の時間になった。
らんまるのごはんが済んで、お湯を沸かし、ぼくがアップルティーをひとつ開封しようとしたとき、トントトン、とノックの音がした。カオルだ。
「じゅん、開けていい?」
「いいよ。」
そう言って、らんまるの首輪を軽くつかまえた。逃げたりしないだろうけど。
「もう起きたの?アップルティー飲む?」
「うん。」
まだ半分寝ぼけ顔のカオルにアップルティーの香りがたちこめるマグカップを渡して、ぼくも一口飲んだ。
「バイト何時から?」
「今日は二時。ねえ、朝メシ食った?」
「まだ。クラッカーがあるけど、食べる?」
「そんなオシャレな朝食なの?」
「他になにもないだけだよ。ジャムをつけて食べるの。」
クラッカーの在処を探す。
「あのさー、じゅん、軽く食べてさ、らんまる連れてE-CAFEまで散歩しない?」
「それ、いいねー。」
「決定!あそこでお昼食べてからバイトに行く。・・・あ、ごめん、帰りはらんまるたのんでいい?」
「いいよ。はい、マーマレードかブルーベリー・ジャム、好きな方どうぞ、ぼっちゃま。」

 らんまるを連れて歩くのは、そう大変な事ではなかった。彼はちゃんと主人の左側に付いて歩くようにしつけられていたし、リードの持ち主をひっぱるような事もなかった。
「のどかな日曜だねえ。こんな日にバイトに行く人の気が知れないよ。」
「オレ、休みたくなってきた。ねえ、じゅん、富士森公園の中を通っていこうよ。」
この前までここに桜がいっぱいだったなんて信じられないくらい、新緑ももう深緑になりかけている。いつもならバスの中から眺めるか、またはスクーターでさっと通り過ぎてしまう道を、三人(ふたりと一匹)でゆっくりと、時々立ち止まりつつ進むのもなかなかいいものだった。富士森公園ではフリーマーケットが開かれていた。水道のところでらんまるに水を飲ませてから坂をのぼって公園を出ると、もう少しでE-CAFEに着く。
[PR]
by whitesnake-7 | 2007-12-26 07:07 | 1.~5.