カテゴリ:36.~41.( 6 )

36.

 カオルがペーパーフィルターの中のコーヒーにゆっくりお湯をまわしかける。らんまるはドアのそばに伏せている。ぼくは下書きが終わったという絵の前に立っている。
「今度のもいい絵になりそうな気がするよ。」
「下書きどおりにいくとは限らないよ。途中で気が変わったりするから。」
ぼくが並べたカップに、カオルがサーバーのコーヒーを丁寧に注ぐ。
「ジュリアさんも今頃同じようにコーヒーを淹れてるのかなあ。」
ふたりで同時にコーヒーを飲む。ラジオから竹内まりやの曲が流れている。
「おいしい。」
「じゃあ我々は貧しいランチとしましょう。」
コンビニの袋からパンとおにぎりをガサガサと出す。
「今夜も泊まりに行っていい?夕飯持参するから。」
「どうぞどうぞ。」
「らんまると寝るのも最後かあ。」
「カオル、さっきらんまるが吠えたの、聞いた?」
「連れ去られそうだったときでしょ?聞いた。」
「吠えるの聞いたの初めてだよ。ウォンウォン!って。」
「それにしても無事でよかったよね、マジで。あ、これ、角のコンビニのよりうまい。」
「なにそれ。」
「これはツナマヨ。じゅんは?」
「おかか。」
「スタンダードだね。」
「冒険できないタチなの。」
「オレも。・・・ああ、だめだ、コーヒー。」
「え?」
「もう一杯淹れる!」
そう言って立ち上がった。
「芸術家がバクハツしちゃったのかと思ったよ。主語と述語をちゃんと言わないから。」
カオルはやかんを火にかけてから、パンをほおばった。コーヒー豆をミルに入れる。
「ジュリアさんどうしてるかなあ・・・。」
ささやくような声でそう言った。会いたいんだろうな。ぼくだってあの笑顔は見たい。
「じゅん、今度E-CAFEでまた豆買ってきて。」
「わかった。」
「いつ行く?」
「いつでもいいよ。その様子だと大至急ってとこかな。あとで行くよ、ハーレーで。」
本当は自分でE-CAFEに行きたいはずだ。明日医者が出してくれる薬がカオルのバリアをE-CAFEまで広げてくれるといいんだけれど。

 カオルとらんまるをぼくの部屋において、スクーターでE-CAFEへ行った。
「いらっしゃいませ。」
男の声。えっ?・・・ああ、客席の方にいたシェフがこっちを向いていた。
「あ、あの・・・。」
「ジュリアは休憩中。呼びましょうか?」
病気かなんかでなくてよかった。シェフはこっちへ歩いてきた。
「いえ、いいです。あの、豆だけいただきたいんですけど、いいですか?」
「ああ、いいですよ。どのくらい?」
落ち着いた声で訊く。
「300グラム。」
「300グラム。」
彼は静かに復唱して、ガラス製の密封容器を出してきた。
「挽きますか?」
「いえ、そのままで。」
手際よく量って袋に入れる。後ろでチリン、とベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。」
彼のクールな声もなかなかいいな、と思った。入ってきたのは近所の老夫婦、というイメージのふたりだ。ぼくは支払いを済ませて店を出た。もう少しでジュリアさんの休憩も終わるだろう。ぼくはスクーターのエンジンをかけた。少し待ってもう一度店の中を見る。あ。ジュリアさん。いつもの笑顔で髪を後ろに上げて、黒いエプロン、白いYシャツ。

 部屋に戻ると、カオルがゆかに座り込んでらんまるに本を読み聞かせていた。
「らんまる、だいぶ勉強になっただろう。」
「じゅん、おかえり。ジュリアさんいた?」
「休憩中だったよ。でも店を出たあと窓から見えたよ。ちょっとの差だったんだね。」
「元気そうだった?」
「うん、いつもの感じで。」
カオルは本を閉じて少しうつむいた。
「はい、これ恵一さんが量ってくれた豆ね。」
「さんきゅー。・・・あ、電話、さっき鳴ってたよ。」
ぼくは留守電を解除する。
『用件は、一件です。』
『えー、お疲れさんです、FMの荒井ですー。例のなんとかっていう雑誌の人、インタビューできなくてもいいから取材したいんだって。こんどの録りのときに来たいっていうんだけど、どうします?連絡くださーい。』
「じゅん、雑誌に載るの?」
「載らないよ。断ったんだ。」
ぼくは受話器を取った。番号を押す。
「もしもし、お疲れ様です、立花ですが。荒井さんをお願いします。」
カオルがふっと立ち上がって部屋を出て行った。
「ああ、立花です。電話いただきまして。」
『なんだかその人、立花くんのファンみたいよ。で、雑誌のコーナーに写真を載せたいんだって。』
「ぼくは雑誌で顔を公開する気はないですよ。」
『また来るって言ってたけど、電話番号聞いてあるから直接断る?』
「来た時に断っておいてもらっていいですか?」
『わかった。じゃあ木曜日にね。』
「はい。失礼します。」
受話器を置く。カオルが戻ってきた。
「早いな。タバコ吸いに行ったんじゃないのか。」
「コーヒーを密閉容器に入れてきた。ねえじゅん、ひとりでE-CAFEに行っていいよ。」
ぼくの方を見ずに言った。
「さっきだってコーヒー飲んでくればよかったのに。」
「今度ゆっくり行くよ。」
ぼくらは夕飯までの間、ぼんやりとラジオを聴いていた。夕飯の後また交代で風呂に入り、ぼくがベッドに入るとカオルはベッドに寄りかかってスケッチブックを広げていた。

   六月二十四日(水)

 朝起きると、らんまるだけがベッドの脇で寝ていた。カオルは部屋に戻ったらしい。
「らん、おはよう。」
らんまるはぼくが起きたのを知ると、シャキーンと立ち上がってしっぽを振った。ベッドから降りて頭をなでる。らんまるはぼくに前足をかけて立ち上がる。よしよし、とハグをする。らんまるの水を取り替えてから、ターンテーブルにホワイト・スネイクのレコードをのせて針を落とす。夢の樹の水も替える。根が伸びて、グラスの底で渦を巻いている。植木鉢に植えてあげた方がよさそうだ。カーテンを開けて、グラスを窓辺に置いた。
 バスルームから出ると、いつものようにらんまるがうれしそうにしっぽを振る。
「今日は雨だよ、らんまる。散歩に行けないな。」
原稿を書く気もないので、ベッドに腰掛けた。デイヴィッドの声が心地良い。
「カオルがおまえと遊べるのも今日までか・・・。」
心のどこかで不安が頭をもたげている。しかしカオルも今日医者に行けば快方へ向かうかもしれない。らんまるの長い背中をなでる。
「おまえがいるうちに買い物に行こう。そうすればカオルをひとりにしなくて済むね。」
カオルが医者に行くのは確かお昼前だったから、午後植木鉢を買いに行こう。考えながらベッドに仰向けになった。夢の樹を植えて・・・。大きくなったら実がなるのかな。しばらくぼんやり考え事をしていた。
 気が付けばもうすぐ七時だ。カオルを起こさなきゃ。ぼくは電話を五回鳴らした。すぐに眠そうな(起きぬけのままの)カオルが来た。らんまるのゴハン・ウォッチング。
「ああ、もうあと一回しか見られない。」
「カオル、トーストかシリアル食べる?」
「いい、上で食べる。あとで来てよ、コーヒー淹れるから。」
そう言ってカオルは三階へ戻って行った。

 簡単な朝食の後、らんまるをつれて三階へ。
「カオル、開けるよ。」
「どーぞ。」
エリック・クラプトンが流れている。
「医者は何時からの予約?」
「十一時十五分。十時半頃出るよ。」
「そう。らんまるがいるから一緒に行けないけど。」
「頓服を二錠呑んで行くから。」
カオルはミルを回し始める。
「カオル、なんかいつもと違う匂いがするけど。」
「絵の具じゃない匂いでしょ?それ、フィクサチーフ。」
「フィクサ・・・なにそれ。」
「木炭とかパステルの定着液だよ。絵にスプレーするの。」
「ふうん。アヤシイ薬品に手を出したわけじゃないのね。よかった。まあ、おまえは童顔だからアヤシイ薬品は売ってもらえないな。安心安心。」
笑っているから心配はなさそうだ。ぼくはカップをふたつ出す。
「おまえが帰ってきたらオレちょっと出掛けるからさ、らんまるをよろしくね。」
「了解。それにしても、らんまるのおかげで早起きさせられちゃってさー、眠いよ。」
「もう夜までのバイトがないんだから朝型人間に変身したら?」
「そうも思ったんだけどさ、夜になるとこう、イマジネーションがはたらくというか、絵のイメージがどんどん湧いてくるの。朝じゃダメ。きっと月の力が作用してるんじゃないかと思ってるんだ。」
「オオカミ男みたいなヤツだな。でも夜って人を変えるよね。昼間付き合ってる人とたまたま夜に会うと違う面を発見したりするもん。おまえも夜の方がイキイキしてるよね。」
差し出されたカップを受け取る。
「さんきゅー。」
熱いコーヒーをすすりながらイーゼルの前へ行く。この前と変わってない、下書きの状態。
 ぼくらはクラプトンを聴きながら、十時半までろくでもない会話をしていた。カオルが出掛けたあとぼくは自分の部屋に戻ってらんまるとボール投げをしてから、またパソコンの使い方を研究した。

 トントトン。
「じゅーん。」
「あいてるよ。」
「ただいまー。らんまるにも、ただいまー。」
らんまると抱き合っている。
「ずいぶん時間がかかったね、寄り道してた?」
「ううん、オレの前の前の予約の人が時間がかかってさー、待ちくたびれたよ。その上オレの順番が来たら発作になりかかるし。自分の番が来て呼ばれるのが怖いんだよね。」
「今は大丈夫?もう一時だよ。お昼はまだなんでしょ?一緒にシリアル食べてく?」
「うん、らんまるを眺めながら食べる。」
ぼくらはらんまるの話をしながらシリアルと果物を食べた。
「そうだ、薬は替わったの?」
「替わった!すごく替わったよ、前と全然違うの。頓服も。ちょっと期待しちゃう。」
「オレも期待しちゃうよ。効くといいね。」
「うん。」
ぼくは皿をシンクに持って行って、グラスに水を汲んだ。
「はい、水。」
「ありがと。効きますように。」
ぼくが皿を洗っていると、カオルは横に来てそれを拭いた。
「じゅん、どこへ行くの?」
「植木鉢を買おうと思って。あれを植えようと。」
ぼくは窓辺の夢の樹を指した。
「ああ、あれ。根っこがすごく伸びたねえ。」
「きれいな葉っぱだし。・・・カオル、なんか買ってくるものがあれば寄ってくるけど。」
「昨日コンビニで買ったからいい。明日銀行へ行こうと思うんだ。今度こそ行かないと現金がなくなる。」
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by whitesnake-7 | 2007-11-25 07:07 | 36.~41.

37.

 バスに乗ってDIYの店へ行った。木材や工具、ちょっとした棚やカーテンなどいろいろ売っている。ぼくはやっと園芸コーナーを見つけた。きれいな鉢植えの花がたくさんある。ああ、あのふんわりした薄桃色の花なんかジュリアさんにいいなあ。ぼくは自然にジュリアさんのことが頭に浮かんだことに少し驚いた。いや、ぼくは鉢を買うんだっけ。鉢3つと『プランターの土』といういかにも初心者向けらしき土を買うことにした。レジで精算して、少し重たいその荷物を持って店を出ると、雨が強くなっていた。
 アパートに戻り、入口で傘をたたんでいると花崎さんが階段を下りてきた。
「こんにちは。」
「ああ、こんにちは。雨なのに買い物?おや、なにか植えるの?」
ぼくの持っている袋から、『プランターの土』という字が透けて見えている。
「木の枝を水に挿しておいたら根が伸びてきたんで。」
「手伝おうか?ネットはあるの?」
「ネット?」
「鉢底に穴があいてるだろう?そこに敷くんだよ。そしてゴロ土を入れる。」
「知りませんでした。どうしよう。」
「ネットなんかうちにあるよ。今植えるんなら持っておいで。そこの屋根の下で植えよう。」
「お、お願いします。じゃあ持ってきます。」
ぼくは階段を駆け上がった。
「カオル、入るよ。」
ドアを開ける。
「ああ、おかえり。」
カオルはらんまるの横でうたた寝をしていた。
「ちょっと下にいるから。」
ぼくは夢の樹をグラスごと持ってドアを出た。階段を駆け下りる。花崎さんはどこからか大きな袋を出してきていた。
「これなんですけど。」
「一本ずつ植えるのね?」
「はい。」
花崎さんは、これだよ、と言って小さな網を見せた。それを鉢の穴のところへ置き、さっきの大きな袋から大粒の土を出し、それぞれの鉢に入れた。
「これを入れておくと水はけが良くなるんだよ。」
「なるほど。」
「この上に君の土を少し入れて・・・。」
ぼくはプランターの土を、言われた通り少し入れた。
「それを真ん中に立たせて・・・。」
夢の樹を指差した。
「きれいな葉っぱだね。これを、このくらいまで土をかける。やってごらん。」
ぼくはあとのふたつを花崎さんがしたように植えた。
「出来ました。ありがとうございました。」
「まだまだ。」
彼は古びたクッキーの缶を開け、入っていた白い粒々を鉢のふちの方にいくつかまいた。
「肥料だよ。」
「ああ、肥料をやらなくちゃダメですよね。全然わかってないな、ぼく。」
「植えたては水をたっぷりやって、あとは表面が乾いてきたときに少しやればいいだろう。」
「たすかりました。どうもありがとうございました。」

 あまり使わない皿を窓辺に三つ等間隔に並べ、夢の樹の鉢をひとつずつ置いた。
「それらしくなっただろ?」
「うん。」
「眠そうだね。」
「眠い。だけどめまいが良くなった気がするの。」
「じゃあ薬が効いてるんだね。」
「眠いのも薬のせいみたい。」
メガネをはずして目をこすっている。
「じゅん、コーヒー飲もう。」
「うん。」
 ぼくらはらんまるを連れて三階へ行った。ぼくがらんまるをドアにつないでいると、カオルはクリストファー・クロスのCDをかけた。
「オレもクリストファーみたいな声だったら歌手になってたなー。」
「オレはカオルの声、ちょっとうらやましいよ。」
「マジで?時々かすれて聞きづらい声がいいの?」
「少しハスキーなのってあこがれる。」
カオルはちょっと顔をほころばせながら、丁寧にコーヒーを淹れはじめた。
「オレはじゅんのおとなしいしゃべり方が時々うらやましいよ。オレがそういうしゃべり方したら、音にならないことがあるもん。」
「それがいいんだよ、なんだか。やっぱ、無い物ねだりなんだな。」
「このままずっとこうしてらんまるが傍にいて、じゅんが話をしてくれてたらいいな。」
「時が止まればいいと思う瞬間ってあるね。」
ぼくはE-CAFEを思い出していた。
「らんまるがいなくなるとつまんないなあ。」
「今度の薬の効果でなんでもできるようになっちゃってるかもしれないからさ、らんまるどころじゃなかったりして。」
「だといいけど。」
「早く一緒にE-CAFEに行こうよ。」
「うん。今夜らんまるが帰ったら明日銀行へ行って、もし平気だったら希望は持てる。」
「あせらずに行こう。ちなみに明日はE-CAFEは休みだし。」
差し出されたコーヒーを受け取り、ふたりで同時に一口飲む。
「カオル、昨日の夜は絵を描いたの?」
ぼくは絵の前へ。変わってない。
「構想は出来てるんだけどね。だるくてやる気になれない。」
「そう。らんまるが帰ったら時間もできるし、ゆっくり描けるね。」
「何時?・・・もう五時半かあ。まーちん、もう帰り道だろうね。」
窓の外を見る。カオルも横に来て外を見る。
「あのキンモクセイ前よりも茂ってきたと思わない?」
「そうだね。」
「となりの家のアジサイもきれい。」
「こっちにはみ出してるところを写真撮らせてもらった。」
「そうだ、らんまるのゴハン風景を撮ってよ。」
 ぼくらはコーヒーを飲み終えると、二階へ下りた。雨もやみそうもないので散歩には行けず、部屋でらんまるとボール遊びをしたりして過ごした。ぼくは時々カオルとらんまるの遊ぶ姿をカメラに収めた。
 七時になると、カオルがらんまるにお手をさせるところかららんまるが食べ終わるところまで写真を撮った。まあまあうまく撮れたみたいだ。
 まーちんが車で来たのは八時だった。彼は、おみやげを買うヒマがなかったから、と言って(おみやげを買うようなところには行っていないわけだから)ぼくらに近所で買ってきた菓子折りを渡した。もちろんヒジカタさんにも。まーちんに一週間ぶりに会ったらんまるは、とにかくうれしそうだった。やっぱりらんまるのご主人様はまーちんなんだなあとしみじみ思った。カオルとぼくがらんまるとの別れを惜しむあいだ、まーちんは何も言わずにずっと待っていてくれた。まーちんとぼくがらんまるの荷物(毛布とかフード)を車に積んでいる間もカオルはらんまるを抱きしめたり頬ずりをしたりしていた。



   六月二十五日(木)

 九時に起こしてくれと言われていたので、電話を鳴らした。
カオルもらんまるもいない部屋は、元通りのはずなのにずいぶんと寂しい。窓の外は今日も雨だ。でも、窓辺にはかわいい鉢が三つ並んでいる。昨日たっぷり水をやったからまだ土は湿っている。夢樹は気に入ってくれるだろうか。
 今日はラジオの録りを十一時半からにして欲しいと荒井さんに言われたので、少し早めに行って、荻窪の街でも歩こう。(どうして荻窪のスタジオを使っているかというと、荒井さんが荻窪出身だからで、スタジオの行き帰りに知人のいる家や店に寄ったりしたいらしい。)CDとレコードを数枚かばんに入れて部屋を出る。そういえばカオルから返事があったっけ?ぼくは三階へ行ってみた。ノックする。
「カオル、起きた?」
ドアを開ける。(彼は出掛けるとき以外はカギをかけない。)
「寝てるじゃん。・・・カオル、九時過ぎたよ。カオル。」
毛布を剥がして肩をゆする。カオルの華奢な両腕をひっぱって上体を起こす。無理矢理座らされた彼は首を回した。
「じゅん、・・・おはよ。」
「おはよう、ぼっちゃま。銀行に行くんでしょ?」
「うん。」
カオルは両手で顔をこすっている。
「あー、眠い。・・・じゅん、もう出掛けるの?」
「そうだよ。ちょっと荻窪周辺を探検してくる。」
カオルは伸びをしたり頭を叩いたりして、ようやくベッドからぬけ出した。
「じゃあオレ行くけど、用事はある?」
「ない。ありがと。いってらっしゃい。」

 「こんにちは。『立花潤の立ち話』、今日も自己満足な選曲でお送りします。まずは封書をいただいているので・・・。青森県のあやさんから。〔じゅんくん、いつも青森で聴いています、と言いたいところですが、青森には当然電波が届いていません。私は最近結婚して彼の実家の青森に住むようになりました。『立ち話』は妹に録音して送ってもらっています。今は北区に里帰り中です。もうすぐ赤ちゃんが生まれる予定です。もし男の子だったら、じゅんくんの名前の文字を赤ちゃんにつけたいのですが、いいですか?〕・・・あやさん、手紙ありがとうございます。封筒に結婚式の幸せそうな写真が同封されていました。きれいですね。そして、もうすぐご出産。おめでとうございます。きっと夢がいっぱいなんだろうなあ。赤ちゃんの名前、ぼくの字を使ってくれるんですか?みんなで考えて、いい名前をつけてあげてください。出産、大変でしょうけれどがんばって。ぼくもずっと応援するから。また手紙ちょうだい。じゃあ、あやさんには元気の出る曲をプレゼントしようかな。レインボーの、『POWER』を。」

 帰りは寄り道せずにまっすぐ帰った。自分の部屋に荷物だけ置いて三階へ。
「カオル、いる?」
返事がない。ドアを少し開けてみる。開くから留守ではない。勝手に入る。
「カオル。」
ベッドにもたれかかって眠っていた。ラジオが勝手にしゃべっている。
「おまえ、風邪引くよ。」
肩を叩く。
「んー?ああ、じゅん。おかえり。」
「気分悪いの?」
「ううん、お昼食べたら睡魔に負けた。今度の薬はとにかく眠い。」
彼はあくびをしながらテーブルの上のカップやパンの袋を片付け始めた。
「銀行は?」
それが訊きたくて帰ってきたようなものだ。
「そう、行けたの!定期を解約できたし、バッチリだよ。」
「そっかー、よかった。バリアが広がったんだね。」
「うん。コーヒー淹れるね。」
ぼくは手を洗って、棚からカップを出す。
「じゅん、来週分はなにをかけたの?」
「ラジオ?来週はラウドネスとかAC/DCとか。」
「叫ぶのばっかりかけたんでしょ?」
「そんなことないって。」
「来週行ったらまたクラプトンをかけてあげるよ。」
「ホントに?」
カオルはコーヒーをカップに注ぎ分け、片方を差し出す。
「さんきゅ。そうだなあ、『LAYLA』がいいかな。」
「やったー。」
コーヒーを飲む。
「じゅん、明日バスに乗ってみようと思うんだ。」
「そう。一緒に行こうか?そうだ、E-CAFEは?」
「そこに行きたいの。」
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by whitesnake-7 | 2007-11-24 07:07 | 36.~41.

38.

   六月二十六日(金)

 ぼくらはバス停に立っていた。曇り空から雨は落ちてこない。
「バス、遅れてるみたいだね。」
ぼくはそう言ってカオルを見た。なんだか落ち着かない様子で小さく足踏みをしながら、バスの来る方を見ている。
「大丈夫そう?」
「少し怖い。ずっとバスが来なければいいとも思うよ。」
カオルはポケットからタバコを出して一本くわえた。彼が火をつけようとしたとき、角を曲がってくるバスが目に入った。
「カオル。」
カオルはタバコをポケットに押し込んだ。緊張がぼくにまで伝わってくる。バスが迫ってくる。
「じゅん、やっぱりだめだ。一台見送っていい?」
そのバスには乗らなかった。
「カオル、苦しい?」
「少し。頓服薬をもう一回呑むよ。」
カオルはたよりない足取りでバス停のベンチまで行くと、薬を出して呑んだ。ベンチには座ろうとせず、荷物だけ下ろすとゆっくり深呼吸をした。
「あせらなくていいよ。オレは原稿の内容でも考えてるから。」
「うん。」
 しかし次のバスが来ても乗ることが出来ず、その次も見送った。
「じゅん、ごめん。オレやっぱり帰る。」
「少し座ったら?休んでからの方がいいんじゃない?」
「座った瞬間に失神しそうで怖いんだ。」

   六月二十七日(土)

 お昼過ぎにカオルの部屋へ行ってみた。彼はベッドにうつ伏せになっていた。カーテンも開けないままだ。
「カオル、具合悪いのか?」
「・・・眠いだけ。」
「なにか食べたの?・・・差し入れ、置いておくね。くるみのパンを買ってきたから。」
「・・・さんきゅ。」
カオルは顔をこっちに向けてそう言って、また目を閉じた。ぼくはそっとドアを閉める。
 その日はカオルは部屋から出た様子はなかった。ぼくは午後写真屋に行って、デジカメの写真を焼いてもらった。五月の末に撮った写真から最近のものまで、さまざまだ。カオルとらんまるのもある。絵と写っているカオルは穏やかな笑顔をしている。焼き増しを頼んでいる間、ずっとその一枚を眺めていた。

   (二日後)六月二十九日(月)

 夕方まーちんから電話があった。蒸し暑い雨の日。
『じゅん、カオルどうしてる?』
「うーん、冴えないみたいだね。・・・と言ってもおとといの昼以来会ってないんだけど。」
『ずっと部屋にいるの?』
「オレの知る限りでは出掛けてなさそうだね。毎日様子を見に行ってもいいんだけど、あんまり行くのもお節介かなーとも思うし、カオルも子供じゃないしね。でも心配はしてる。」
『そうだよね・・・。オレもたまに電話するんだけど、出ないんだよ。』
「そうか。そうだね、調子はどう?って訊かれて、元気なフリも辛いしね。」
『カオルの親は知ってるの?』
「どうだろう・・・、たぶん言ってないんじゃないかな。心配かけるからって大家さんにも言わないくらいだから。あ、でもヒビキくんは知ってるはず。」
『ヒビキくんって誰だっけ。ああ、弟ね、双子の。』
「ヒビキくんも不調なんじゃないかと思うんだけど・・・。電話番号もわからないし。」
『オレもたまには顔出したいんだけど・・・。』
「無理しなくていいよ、オレもまた見てみるから。」

   六月三十日(火)

 ぼくは走っていた。誰かを追いかけて。彼の姿を見つけたとき、声がした。
「名前を呼んじゃだめだ!彼を呼ばないで、河を渡ってしまうよ!」
河を渡ってしまう?どういうことだ。
「じゅん、呼んではだめ!」
はっ、と気が付くとベッドの上だった。夢か・・・。変な夢だった。
 火曜日だ。原稿を出しに新宿へ行く前にカオルの部屋を覗いた。九時半になる。
「カオル、入るよ。」
カオルは絵の前でゆかに座り込んでタバコを吸っていた。テーブルの上にはカロリーメイトの箱とカップ、灰皿には吸殻が溜まっている。
「カオル、オレ編集部行ってくるけど、なにか用事ある?」
「ううん。」
「駅弁でも買ってこようか。」
「いい。ありがと。」
「これ、写真出来たんだ。らんまるのとか。ここに置いておくね。じゃあ行ってくる。」
「うん。」
 中央線に乗っている間に雨が降り始めた。夜までやまないらしい。
 原稿を提出して溜まっていた原稿料を受け取ると、さっさと建物を出た。新宿駅周辺で、なにか目新しい食べ物を探した。カオルに、なにこれ、と言って笑って欲しかった。でもあまり目に留まる物はなく、雨が強くなってきた。駅ビルの中をウロウロしたあげく、なにも買わずに帰途についた。
 八王子の駅ビルの地下で惣菜とパンを買った。駅を出るとバス停に向かう。なんだか頭が痛い。電車に酔ったのかな。こんな天気のせいか。早く帰ってシャワーでも浴びよう。
 アパートに戻り、部屋に入るとなにかの気配を感じた。夢の樹を見る。なぜ反射的にそれを見たのかわからない。部屋を見回しても誰もいない。あたりまえだ、カギをかけてあるのだから泥棒以外は入らないはずだ。ぼくはホワイトスネイクのCDをかけて、濡れた服を着替えた。買ってきたパンをかじりながら冷蔵庫を開け、ウーロン茶を出す。そういえば留守電を聞いてなかった。
『用件は、一件です。』
『さっきはどうも、笹山です。立花くんが帰ってからしばらくして電話があったよ。シロイシヒビキっていう男の人で、君の電話番号を教えてくれって言うから断ったんだけど。知り合いだって言ってたけどイタズラだと困るからさ。そしたら急ぎの伝言をお願いしますって言われてね。電話してくれって、番号を聞いてあるから、知ってる人だったら電話してあげてくれる?電話番号は・・・』
ぼくは急いでメモをとった。ヒビキくんだ。どうしたんだろう。メモした番号に電話する。
『もしもし、城石です。』
「立花です、ヒビキくん?」
『あ、良かった、連絡がとれて。立花さんの番号知らなくて、出版社に訊けばわかると思って・・・。』
「ぼくもヒビキくんに話がしたかったんだ。体調はどう?」
『まあ、良かったり悪かったりなんですけど、今日はなんか違うんです。』
「違うって?」
『すごく胸騒ぎがして・・・。うまく説明できないんですけど、変なんです。カオルに電話してるんですけど全然出なくて。申し訳ないんですけど、様子を見に行ってもらっていいですか?』
「わかった。すぐ見てくるから。また電話する。」
『すいません、お願いします。』
電話を切り、急いで三階へ駆け上がる。
「カオル、入るよ。」
ドアを開ける。姿は見えない。テーブルの上に、今朝ぼくが置いていった写真が一列に並べてあった。笑顔のカオルが写っている。
「カオル。」
ぼくは何気なく絵の前に行った。この前まで下書きのままだったその絵に、黒いペンで大きくバツ印が書かれていた。
「カオル?」
ぼくはバスルームをノックして開けた。いない。
「カオル、いないの?」
返事はない。ベッドの下まで覗いたけれどいなかった。出掛けたのか?とりあえず二階の部屋に戻ってヒビキくんに電話した。
『もしもし、城石です。』
「あ、立花です。カオル、部屋にはいないみたい。出掛けたのかもしれないから、カオルが行けそうなところを探してみるよ。」
『本当にすいません、お願いします。』
一応ヒビキくんにぼくの電話番号を言っておいた。カオルから電話があるかもしれないから留守電にして、あわてて部屋を出た。階段を駆け下りると、宅配便の人とぶつかった。
「あ、ごめんなさい。」
「あの、すいません、城石馨さんの部屋は・・・。」
「三階です。あ、でも今留守なんでドアの前に置いておいてください。ハンコは大家さんに・・・そこの部屋ですから。」
「どうも。」
彼は箱を抱えて階段を上がって行った。ぼくは雨の中へ出て行く。カオルの行ける範囲は狭い。すぐ近くにいるはずだ。ヒビキくんの胸騒ぎってなんなんだ。ぼく自身も胸騒ぎを感じていた。角のコンビニにはいなかった。タバコの販売機、信号、公衆電話・・・。どこでなにをしているのだろう。こんな雨なのに。発作に襲われて苦しんでいるのか。しばらく歩き回って、踏み切りに出た。線路沿いを小走りに行くと、200メートルくらい先に空色の傘が見えた。顔は見えないけれどカオルだ。車の渡れない小さな踏切で遮断機が開くのを待っていた。ぼくは駆け寄るどころか、足が止まってしまった。なんだ、ちゃんと立ってるじゃないか。電車が通過して遮断機が上がった。どこへ行くのだろう、と思ったら踏切を渡ろうとしない。怖いのか。でもがんばって挑戦しているんだな。ぼくはカオルから見えないように電柱の後ろに隠れた。すぐにまた踏切の音がして、まもなく遮断機が下りた。次に開いたら渡れるといいな。・・・でもなにか様子がおかしい。遮断機ギリギリのところまで前に出たのだ。まさか・・・カオル!
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by whitesnake-7 | 2007-11-23 07:07 | 36.~41.

39.

走っていこうとしたけれど足が動かない。ぼくは叫ぼうとした、カオル!そのとき耳元で声がした。
「呼んじゃダメ!彼を呼んだらだめだ!河の向こうへ行ってしまうよ!」
ぼくは驚いて自分の左肩を見た。
「夢樹!」
本物の夢樹だ!ぼくの肩に確かに立っている。これは夢なのか?
「夢じゃない。早くここを離れて!見ちゃだめだ!」
「でもカオルが!」
「呼んじゃだめ、彼は大丈夫、ここを離れるんだ、早く!」
ぼくは言われるままに今来た道を走って戻った。バス通りで立ち止まった。肩で息をする。ぼくが想像したようなことをカオルはしようとしていたのだろうか。
「夢樹、カオルは・・・。」
肩の上にはもう夢樹の姿はなかった。本当に戻ってきてしまって良かったのだろうか。迫り来る電車の前にフラフラと出て行くカオルの姿が浮かんでは消えた。
「じゅんくん?」
聞き慣れた声がやさしくぼくを呼んだ。かあさん?
「やっぱりじゅんくんだ。」
「ジュリアさん!」
ジュリアさんがぼくを見上げていた。ぼくの中の張り詰めたなにかが少し溶け始めた。
「バスから見えたから。今日は店がすいてたから早く帰って来ちゃったの。ちょっとお買い物しようかなーと思って・・・。」
その瞬間、ぼくはジュリアさんを抱きしめていた。頭の中は混乱を極めていた。そこへかあさんのようなぬくもりが天から降ってきたのだった。彼女を抱きしめたのが一瞬だったのか数分だったのかわからない。我に返ってぱっと手を離した。
「あ、ご、ごめんなさい!すごく混乱していて・・・ごめんなさい!」
それだけ言うのが精一杯だった。落とした傘を拾って、彼女の顔も見ずに逃げるようにアパートへ帰った。
部屋に入ると、冷たい水で顔を洗った。何度も。ぼくはなにをしているんだろう・・・。
「夢樹?いるの?」
返事はなかった。ぼくは乾いたタオルで顔と髪を拭いた。留守電にはなにも入っていなかった。ヒビキくんにどう言えばいい?彼の胸騒ぎは間違いなくあれだったんだ。廊下に物音を感じて、ドアを開けた。三階へ行ってみる。さっきの宅配の箱が置いてある。・・・カオルのおふくろさんからのものだ。ぼくは二階へ戻った。ドアを閉めようとしたとき、誰かが階段を上がってくる音がした。ぼくはドアを細く開けて様子を伺った。足音は三階へ上がって行く。カオルだ。ぼくはそっと廊下に出た。カオルから見えないようにそっと階段に寄る。少しの沈黙の後、すすり泣く声が聞こえてきた。カオルが泣いている。あの箱を目にしたのだろう。ぼくは静かに自分の部屋へ入った。壁の絵を見て涙が溢れた。

   七月一日(水)

 電話のベルで目が覚めた。時計を見ると八時半を過ぎていた。昨日なかなか眠れなかったから・・・。
「立花です。」
『じゅん、寝起き?』
「ああ、まーちん、おはよう。」
『あのさ、突然なんだけど、陽子が免許取ったんだよ。それで彼女車買ったの。』
「へえ。」
『だから日曜はそっちに乗るからさ、毎週オレの車貸してあげられるよ。』
「ホント?すごいすごい、それたすかるよ。」
『いつもおまえにばっかり頼んで悪いけどさ、カオルのことよろしくね。』
「うん。頼りないけどね。でも車はホントたすかるよ。オレ、レンタカーでも借りようかと思ってたんだ。」
『そんなに喜んでくれるとうれしいな。』
「らんまるは元気?」
『元気元気。また預かってもらうときはよろしく。じゃあ、そういうことで。』
受話器を置く。窓辺に行く。降り続く雨。今日から七月だ。ぼくは夢の樹の鉢の土が少し乾いているのに気が付いた。やかんに水を汲んで、静かに土に水をやる。三つの鉢は仲良く等間隔に並んでいる。たまには順番を入れ替えた方がいいかな。ぼくは鉢を動かした。そのとき、鉢を取り落としそうになった。夢樹が座っていたのだ。
「やあ、じゅん。おはよう。」
「お、おはよう。」
夢か?もうすぐ目が覚めるのか?
「夢じゃないよ。夢の樹を大切にしてくれてありがとう。」
「ああ、・・・・・。」
ぼくはなかなか言葉にならない声を発しながら、昨日のことを思い出していた。
「夢樹、昨日は、あの、ありがとう。ゆうべいろいろ考えたんだ。もしあのときオレがあいつの名前を叫んだら、あるいはそれが彼の背中を押すことになっていたかもしれないって・・・。」
夢樹は黙っている。
「君がいてくれて良かったよ。そう、多分・・・。」
夢樹は夢の樹の葉を一枚取った。小さくちぎって、口に入れた。
「ねえ夢樹、どうしてオレの前に姿を見せ始めたの?前は夢の中だけだったのに。」
ぼくは彼の前に掌を差しのべた。彼はその上にそうっとのった。
「信用しても大丈夫だと感じたから。ぼくの存在も夢の樹のことも信じてくれたでしょ?」
「でもそれは君がそういうふうに導いていったからで・・・。」
「だけどただの偶然のつながりだと思ってしまえばそれで済んでしまったわけでしょ?じゅんは夢の樹の枝もちゃんと取ってきてくれたし、時々ぼくに食べ物を置いておいてくれた。ああ、この前のはちょっと辛かったけど。」
「ごめん、葉っぱが食べられるならネギも平気かなと思ったんだ。ちくわは・・・、あの茶色っぽいのはおいしかっただろう?」
「うん。ひとつめはあの黒い犬にプレゼントしちゃった。ツツジのところでぼくの居場所を見つけてくれたお礼にね。彼はぼくを覚えていてくれたよ。」
「君はらんまると話が出来るの?」
「ううん、感じるんだ。」
ぼくは夢樹を掌にのせたまま、やかんを置いて椅子に座った。夢樹を机の上に下ろすと、彼はそこにあった鉛筆に腰掛けた。
「夢樹はどこで寝るの?」
「夢の樹の穴の中に枯葉や鳥の羽根を敷いてそこに。でもあの樹が切られてしまってからは・・・時々ここに泊まらせてもらってた。」
「この部屋に?」
夢樹には訊きたいことが山ほどあったが、今はこのくらいにしておこう。
「夢樹、なにか飲む?」
「いらないよ、この葉っぱは水分がたっぷりあるから、これさえあれば大丈夫。」
「そうなの?」
彼はおいしそうに夢の葉を食べる。
「仕事、するんじゃないの?」
「え、うん。でも今日はそんな気になれないな。」
カオルはどうしているだろう。様子を見に行った方がいいかな、でも昨日の今日だし、そっとしておいた方がいいか・・・。
「彼なら大丈夫だよ。向こうからなにか言ってくるよ。」
「君はぼくの考えていることがわかるの?」
「すごく近くにいる人のことはぼんやりとね。」
彼はぼくを見上げた。ぼくは掌を差し出す。彼はぼくの掌から腕を伝って肩にのった。
「そうだ、オレ、ジュリアさんに謝らなくちゃ・・・。」
まだ店は始まっていない時間だし、電話してみようか。でもなんて言えば・・・。もしもし、の次が見つからない。開店の準備中だろうから、店が終わってからにしよう、と自分に言い訳をした。ベッドに座ったら夢樹がぼくの腕をスルスルと下りてそこへのった。
「人間の考えることってすごく複雑なんだね。」
「え?」
「じゅんの頭の中はいろんなことがグルグルしてて難しいよ。」
「うーん。人間は複雑かもしれないね。でもどうして人間の言葉がわかるの?」
「夢の樹の下を通る人って結構多かったよ。いろんな話をしながらね。だから覚えた。」
「君は頭がいいんだな。」
夢樹は枕の上に丸くなった。
「ちょっと眠るね。」
「どうぞ。」
ぼくは冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを出し、それを持って窓辺に行った。雨に打たれる庭を見る。ピンク色のユリが咲いている。雨を歓迎しているように。
 電話が鳴った。胸がドキンとした。
「立花です。」
『じゅん、おはよう。』
カオルだ!なんて言えばいい?
「ああ、お、おはよう。」
『・・・ねえ、コーヒー飲みにこない?』
「行く行く。すぐ行くよ。」
受話器を置くとすぐ留守電に設定して部屋を出た。階段を上りながらヒビキくんのことを考えていた。ヒビキくんにはありのままを伝えるしかなかった。彼は胸騒ぎの訳も知ったし、カオルが無事に戻ったことも。ヒビキくんはぼくに電話したことをカオルに言わないでくれと言った。そしてなにも聞かなかったことにしておいてくれと。
「カオル、入るよ。」
「どーぞ。」
いつもの人なつこい声。ぼくは彼になにもしてあげられなかったことが悔しくてならなかった。思い詰めている彼をどうしてもっと早くわかってあげられなかったのだろう。それでも精一杯普通の顔をした。なにもなかったように。
「じゅん、おふくろからまた食糧が届いたんだよ。もう朝ご飯食べちゃった?」
「ううん、今日はちょっと起きるのが遅かったんだ。」
「オレは早いでしょ?変な夢みちゃってさ。」
カオルはまぶたが少し腫れていた。昨日はだいぶ泣いたのだろう。
「そうだカオル、朗報だよ。まーちんから電話があってさ、毎週日曜日に車を貸してくれるって!」
「マジで?」
「陽子ちゃんが免許取ったんだって。それで車を買うからって。」
「じゃあもしかしたらE-CAFEにも行けるかなあ。」
「行ける行ける。額縁買ったときも行けたじゃん。ドライブしようよ。」
「なんか希望が湧いてきた。ジュリアさんに会えるんだ。」
カオルはうれしそうに豆を挽き始めた。そう、そういう顔が見たかったんだ。ぼくは胸の奥がジンとした。ラジオから流れるサイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』に涙が出そうになった。慌てて棚の方へ行き、カップを出す。
「じゅん、オレじゅんとコーヒー飲むときって好きだよ。」
「オレもおまえのコーヒーが好き。」
カオルは挽いたコーヒーをペーパーフィルターに入れる。
「ねえじゅん、オレ昨日ね・・・」
ドキッとした。なにを言うつもりなんだろう。少しの沈黙の後、カオルは続けた。
「・・・ずっと考え事してたの。先週医者に行ったとき言われたんだよ、まるっきり以前のままの状態まで治ろうとしなくてもいいんじゃないかって。それ聞いたとき、愕然としたの。もう前みたいには戻れないのかって。好きなところにも行けない、会いたい人にも会えない、仕事も出来ない、世の中の役にも立たない。じゃあオレはなんなんだろうってさ。先生はね、元通りに戻ろうとすると出来ない時にギャップに苦しむからっていう意味で言ったらしいんだ。合う薬を探しながら、出来る範囲の中でたのしみを見つけていけばいいんじゃないかって。でもそんなふうには思えなくて、すごく落ち込んでた。体はだるいし、どんなに寝ても眠いし、こんな状態でなにが出来るのか、ただ寝て起きて食べてまた寝るだけ。でも昨日外に出て思い出したんだ。じゅんが言ってくれたこと。」
「オレが?」
「そう。」
サーバーにはふたり分のコーヒーが溜まった。
「じゅんはオレに、これは神様が絵を描く時間を与えてくれたんだと思えばどうかって言った。それを思い出したの。」
「ああ、そんなこと言ったっけね。」
「オレは自分に絵の才能があるとは思ってないけど、例えば銀行で定期が解約できなくて苦しかった時も、それは神様が、そんなことしていないで絵を描きなさいって言ってるんだなと思えば少し救われる気がするんだ。」
カオルはカップに交互にコーヒーを注ぐ。そして片方をぼくの前に置いた。
「だから昨日はじゅんにたすけられたよ、心の中がちょっとすっきりした。」
「そう。だったらオレもうれしいよ。」
ふたりでコーヒーを飲む。
「いつか神様が満足してくれるくらい絵を描いたらこの病気から開放してくれそうな気がするんだ。」
涙をこらえるのが精一杯だった。
「先生もね、治らないと決まったわけじゃないとは言ってくれたけど、発作が起きた時の対処法をなんとか見つけて、病気とうまく付き合いながら少しずつ行動範囲を広げて行くようにって。」
「うん。手伝えることがあったら言ってよ。」
「ありがと。これ、おふくろが送ってきたの。箸持ってくるね。」
ぼくらはカオルのおふくろさんが送ってくれたもので朝食を済ませた。
「そうだ、じゅんにも来てた。」
「え?」
「これ。」
紙袋に『潤くんへ』と書いてある。開けてみると、オフホワイトのポロシャツが入っていた。
「この前もオレもらったっけ。」
「じゅんにはお世話になってるから。ちなみにそれ、オレと色違いだ。ほら。」
淡いブルーのを広げて見せる。
「カオルとペアルックなわけね。」
「そうみたいよ。」
「おふくろさんに電話したらお礼を言っておいてよ。」
「うん。・・・昨日の夜ね、ヒビキに電話したんだ。」
えっ?
「ヒビキも時々調子が悪いって言ってた。多分オレの方の影響らしいって言っておいたよ。」
「ヒビキくんは発作にはならないの?」
「ならないみたい。でも声は元気そうで良かった。」
カオルが無事でいたことの方がヒビキくんにはよほどうれしかったに違いない。
「ついでにタマキにも電話したの。ピアノの上にケータイを置いてもらってピアノ聴かせてもらった。」
「おふくろさんにも電話すればいいのに。」
「なんかはずかしいじゃん。伝言はタマキに言っといたから。バイト辞めたことも。」
「店がつぶれたからって?」
「そう。あはは。店長には悪いけど。だからしばらくはプー太郎だよって。」
「病気のことは言わないの?」
「それは・・・うん、ヒビキにだけしか。」
「そう。」
「じゅん、今日はどうするの?執筆?」
「ううん、床屋に行こうと思って。」
「だいぶ伸びたもんね。オレに遠慮して行かなかったんでしょ?」
「違うよ。」
「オレ、もう少し伸ばすことにしたから。仕事してたら伸ばせないでしょ?仕事にもよるけど。だからプー太郎の特権ってことで。」
「おまえは長いのも似合うよ、オレと違って。」

 床屋から帰って来て部屋に戻り、留守電を解除する。
『用件は、二件です。』
・・・ツーツーツー。一件目は用件を言わずに切れていた。おやじからかな・・・。もう一件を聞いて心臓が高鳴った。
『もしもし?じゅんくん、ジュリアです。・・・あの、今休憩中で。さっき無言電話しちゃったの、私です。なにを言っていいかわからなくて。えーと・・・また夕方にでもかけなおします。』
ジュリアさん・・・。昨日のこと、どう思っただろう。怒ってなさそうだけど・・・。ずいぶん突然失礼なことしちゃったから、きっとびっくりしただろうな。時計を見る。四時。あと一時間でジュリアさんの仕事が終わる。夕方かけなおすって言ってたけど、こっちから電話した方がいいんだろうな・・・。直接会ってあやまった方がいい?でもどんな顔して会えばいいんだ。ふとベッドを見た。夢樹はいなかった。ジュリアさんに電話・・・。でも、どこまで話せばいいのだろう。カオルのことは・・・言えない。
 五時十五分に、決心して電話した。彼女が教えてくれたケータイの番号を押す。
『もしもし?』
「あ、あの・・・立花です、じゅんです。」
『じゅんくん?あ・・・ちょっと待ってね。』
「はい。」
しばらくの沈黙があった。
『ごめんなさい、ここなら大丈夫。』
「今、忙しくなかったですか?」
『ええ、大丈夫。』
落ち着いた声。
「あの、ぼく、昨日は突然すいませんでした。ちょっとショックなことがありまして・・・。すごく混乱してたんです。そこにあなたが現れて、なんだか糸が切れたようになっちゃって・・・。」
彼女は黙っていた。
「ぼくは小さいときに母親を亡くしてるんですけど、時々ジュリアさんにその面影を感じるんです。失礼かもしれないけど・・・昨日も。」
そこまで言って、言葉を失った。しばらくして彼女が話し始めた。
『昨日のことは気にしないで。実は私も昨日はちょっと・・・。店がすいてたからなんていうのは嘘なの、ごめんなさい。ちょっと仕事が出来るような精神状態じゃなくて早く帰らせてもらったの。そしたらバスからじゅんくんが見えて。私もね、ある人の面影をじゅんくんに感じているの。とても大切な人・・・。だから、こんなこと言うのはどうかと思うんだけど・・・昨日はうれしかったの。』
「えっ?」
『もちろん、変な誤解はしてないから心配しないで。今度ゆっくり話したいと思ってるの。ねえ、あの絵はじゅんくんの部屋に飾ってある?』
「ええ。」
『私ね・・・もう一度見たい。』
「あ、じゃあ・・・見に来ますか?」
『いいの?もしも迷惑でなかったら行きたい。もちろん、ふたりで会うのはじゅんくんだって困るでしょうから、カオルくんがいるときに。確か一緒のアパートに住んでるんだったわよね。』
「ええ。じゃあ日曜日はどうですか?」
『本当にいいの?』
「もちろん。日曜日にE-CAFEへ行こうと思ってるんです、カオルと。だから帰りに一緒に・・・。」
『うれしい。・・・私ね、カオルくんにも電話してみたのよ、昨日。でも出なかったの。』
「そうですか。カオルにも言っておきます。よろこびますよ。」
『なんか気持ちが晴れたわ。どうしようかってずっと考えてたから。』
「ぼくもです。」
『じゃあ日曜日に。』
「店に行きます。」
『ありがとう。』
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by whitesnake-7 | 2007-11-22 07:07 | 36.~41.

40.

   (四日後)七月五日(日)

 朝、小雨の降る中まーちんと陽子ちゃんは二台の車でアパートの前まで来た。カオルとぼくと四人でしばらく立ち話をしてから、まーちんの黒い車を置いて、ふたりはデートに出掛けて行った。らんまるは今日はまーちんの部屋で留守番だ。
「そういえばカオル、メガネは?」
「コンタクトに戻した。水曜日から徐々にね。」
「今日は特別な日だから?」
「うん。でもちょっと息苦しいんだ。」
「じゃあE-CAFEはどうする?」
「ごめん、今日は発作を起こしたくないんだ。じゅん、行ってきてくれる?」
「・・・わかった。またいつでも行けるよ。」
「うん。まーちんに感謝しなくちゃ。」
車をそこに置いておけないので、ぼくはすぐに出掛けることにした。ファーストフードでハンバーガーの朝食をとり、・・・ところで、ジュリアさんが来たらなにをどうする?お菓子でも出すのかな、やっぱり。ぼくは前にヒジカタさんに教えてもらったおいしい洋菓子屋さんを思い出してそこでクッキーを買った。それからスーパーへ行き、食料品を一週間分くらい買った。カオルの分まで。とりあえずアパートに戻って荷物を冷蔵庫に入れたり片付けて、また車に戻る。
少し雨が降り始めた。カオルに見送られてE-CAFEへ。

 こんな天気だというのにE-CAFEはとても混んでいた。二十分程待って、あいたカウンター席に座った。ジュリアさんにひとりで来た理由を言うと、残念そうだったが、あとで会えるわね、と明るく言った。彼女もシェフもとても忙しそうで、話をする余裕はなかったが、彼女が笑顔を絶やさないのがただうれしかった。ひとりでランチを済ませ、コーヒーを飲む頃にはランチのラストオーダーの時間になっていた。カウンター席がぼくひとりになる頃、ジュリアさんもランチの洗い物を終えて、休憩時間に入った。ぼくがシェフの動きをぼんやり見ていると、彼もぼくを見た。ぼくは驚いてしまった。いつも見つめていても目を合わせることはなかったからだ。シェフが口を開いた。
「ジュリアの本名は知ってるの?」
低い声でそう言った。
「・・・いえ、知らないです。」
「そう。」
彼はコーヒー豆を量って手際良くミルに入れると、スイッチを入れた。挽きたてのいい香りが漂ってくる。なぜ彼はぼくに訊いたのだろう。彼はペーパーフィルターに粉を移す。カオルの方がもっと丁寧にする作業だ。コーヒーを蒸らす間にもう一度ぼくの目を見た。ぼくがあんまり興味深げに見つめているのが鬱陶しいのかな、と思ってあわててうつむいた。すると、意外なことを言った。
「あいつの力になってやって。」
「えっ?」
それだけで、もう彼はぼくを見なかった。
 しばらくしてジュリアさんが扉から顔を出した。
「あ、わりと落ち着いたわね。」
店内を見渡して言った。
「小野寺くん、休んできて。」
シェフはジュリアさんと目を合わせただけで、手を拭いてから扉の向こうへ出て行った。
「小野寺くんにね、今日はデートだって言ったの。ふたりも彼が出来ちゃったって。そしたら今日は四時であがっていいって。やさしいでしょ?」
後ろでドアのベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。」

 四時を過ぎてぼくが車で待っていると、ジュリアさんが裏口から出てきた。大きな皮のカバンを持って、淡い黄色のTシャツにジーンズで髪をおろしている彼女は、店にいるときとは全然違う雰囲気だ。彼女を乗せて、ぼくはアパートへ向かった。しばらくはなにを話していいかわからずに黙っていたが、アパートが近づくとぼくから話し出した。
「古いアパートですから驚きますよ。」
「大丈夫よ。」
「木造ですよ。」
「あらステキ。レトロな感じ?」
「第一印象は小学校みたいだと思いましたよ。カオルが引越してくる前の年にユニットバスになったらしいんです。それまでは銭湯行き。」
「カオルくんの方が前からいるのね。」
「ええ。・・・あそこです。着きました。」
サイドブレーキを引く。ヒジカタさんがアパートの入口の辺りを掃除していた。ぼくらが車を降りて近づくと、ヒジカタさんがぼくらを見た。
「じゅんくんおかえり。まあ、かわいい人。」
「カオルとぼくの友達です。」
ジュリアさんは、こんにちは、と丁寧にお辞儀をした。ぼくらは二階まで行くと、ジュリアさんに廊下で待っていてもらって三階へ行った。ノックする。
「カオル、入るよ。」
「どーぞ。」
ドアを開ける。部屋がいつもより少し片付いている。ヴァイオリン曲が聞こえる。
「眠ったの?」
「少しね。もう大丈夫。」
「ジュリアさん来たよ。」
「先にコーヒー淹れるね。」
「じゃあ呼んでくる。」
ぼくはまた二階に下りて、ジュリアさんをカオルの部屋に連れて来た。
「おじゃまします。」
ジュリアさんが言うとカオルはとてもうれしそうな顔をした。
「ご覧の通りきたない部屋ですけど。」
「会えてよかったわ。」
ジュリアさんはカオルに手を差し出した。カオルも自然に手を出し、握手した。
「じゅんくんともまだだったわ。」
ぼくとも握手した。少し冷たいけどやわらかい手だった。
「ようこそ小学校へ。」
「廊下と階段はホントに学校みたいでなつかしいわ。カオルくんの部屋は絵の具の匂いがするから図工室ね。」
「くさいでしょう?」
「ううん、アトリエっていう雰囲気。独特な世界ね。」
やかんのお湯が沸いている。
「ぼくが淹れたコーヒー、飲んでくれますか?」
「ええもちろん。ありがとう。あ、手動式のミルね。やらせて。」
「珍しいですか?」
「この型は最近見ないわよ。ステキね。」
ぼくはふたりのやりとりを見ているだけで充足感を味わっていた。カオルが量った豆をジュリアさんが挽く。
「思ったより力が要るのね。優雅に見えるけど。」
「そうですね、見た目は優雅ですけどね。」
挽き終わった豆をカオルがペーパーフィルターに入れる。ポットに移したお湯をゆっくり回しかける。ジュリアさんはカオルの様子をうれしそうにじっと見つめていた。丁寧に円を描くようにお湯を落としていく。ぼくは棚からカップを三つ出してカオルの前に並べ、さっき洋菓子屋で買ってきたクッキーを器に並べた。
「ねえ、カオルくんって私なんかよりよほど丁寧に淹れるのね。」
「そ、そうですか?ぼくはほら、店と違って時間に追われないから。・・・遅いんです。」
ぼくは黙ったまま、カオルがカップに注いだお湯を捨てる。
「ふたりはいつもそうしてるの?」
「ぼくはカオルがコーヒーを淹れてくれるのを待ってるだけです。カップを出すのと、カップを温めたお湯を捨てる役目。」
「二人三脚ね。」
「ジュリアさんと小野寺さん程手際よくありませんけど。」
「フフ。あれは小野寺くんがフォローが上手なだけで、私はいっぱいいっぱいなのよ。」
「そんなことないですよ。」
サーバーに、今日は三人分のコーヒーが溜まっていく。
「あ、ジュリアさん、ミルクとか砂糖は?」
「わたしはそのままで。ありがとう。」
女の人がひとりいるだけでどうしてこんなに部屋の中が明るいのだろう。なつかしい感覚。カオルがサーバーのコーヒーを丁寧に三つのカップに注いだ。ひとつをジュリアさんに差し出す。
「ありがとう。いただきます。」
ぼくも受け取る。
「さんきゅ。」
三人で飲む。カオルとぼくはジュリアさんの反応を見ていた。
「おいしい。深い味がするわね。これ、Eブレンド?」
「そうです。」
「わあ、なんか感激。とってもおいしい。私が淹れてもこんな味かしら。」
「ジュリアさんのもおいしいですよ。でも人が淹れてくれたのってまた格別な気がするんですよね。ただここでの問題は部屋が絵の具くさいこと。」
カオルが言った。ジュリアさんもぼくも笑う。
「もうそんなに気にならないわ。」
ジュリアさんは本当においしそうにカオルのコーヒーを飲んだ。
「クッキーもどうぞ。」
「ありがとう。・・・外を見てもいい?」
「どうぞ。」
三人で並んで窓辺に立ってコーヒーを飲む。
「すごくたくさん植木があるのね。オーナーのところもこんな感じよ。」
「さっき会った大家さんと、ぼくの隣の部屋の人とで世話をしているんです。」
「ああ、そういえば山草展に来てらしたっけ。私が帰ろうとしたとき。」
「そう、その人。」
ぼくらはしばらく黙ったまま庭を眺めていた。ゆっくりとジュリアさんが話し始めた。
「ねえカオルくん、今日も体調がよくなかったんですって?」
「あ、はい。」
「辛いんでしょう?」
「・・・ええ。」
「私ね、悲しいことがあったときとか辛いことを思い出したとき、ステキな想像をすることにしてるの。リラックスしてね、椅子に座って・・・ベッドに寝転んででもいいわ、目を閉じるの。例えば私だったら・・・一面のお花畑にあるお花を好きなだけ、抱えきれないくらいたくさん摘んで、お部屋を花でいっぱいにして、好きな音楽をかけておいしいコーヒーを飲みながらとっておきのケーキを食べるの。ハンモックに乗っているところ、なんていうのもいいわね。自由に考えていいんですもの。想像だから。大好きな俳優さんとデートしているところとか、空を自由に飛んでいるところとか、たのしいことをいっぱい考えるの。そうするとね、心に栄養がいきわたる感じになるの。」
ぼくは胸が熱くなった。カオルがつぶやく。
「ステキですね。」
「カオルくんにも出来るでしょう?簡単だもの。じゅんくんもね。」
「ええ。いいことを教えていただきました。」
「辛いことばっかりじゃ自分がかわいそうですものね。・・・あ、あそこの白いのはクチナシね。あの香りはたまらなく好き。」
 ぼくらはコーヒーとクッキーでしばらく会話をたのしんで、今度はぼくの部屋に絵を見に来ることになった。木製の階段をジュリアさんはとても気に入ったようだった。
 ぼくの部屋に入ったとたん、わあっ、とジュリアさんは声を出して絵に近寄った。
「またこの絵を見られてうれしい。」
「そんなこと言われたらカオルの方がもっとうれしいはずですよ、そうだろ?」
「うん。」
カオルは顔を紅潮させていた。ジュリアさんはしばらくなにも言わずにじっと絵を見つめたまま動かなかった。そしてやさしい声で言った。
「ステキだわ。この質感も色のやさしさも。」
「ぼくもカオルの絵は好きです。」
ぼくは絵が見えるように椅子の向きを変えてジュリアさんに勧めた。
「ありがとう。特等席ね。」
ジュリアさんが腰掛けると、カオルはベッドに座った。ぼくはテーブルを動かしてもうひとつの椅子に座った。(椅子がふたつしかないのだ。)
「そうだ、これ。」
ジュリアさんはカバンからなにかを出そうとしている。ワインだった。ロゼの・・・。
「この絵を見ながら飲みたくって・・・。いいかしら。」
「ええ。」
「ふたりとも、飲めるでしょう?」
飲めない、とは言い難かった。カオルが大きな声で言った。
「ぼく、いただきます!なんだか気分がいいから。」
そんなに飲めないのに。でも飲みたい気持ちは充分すぎるくらいわかった。
「すいません、ぼくは・・・あとで車を返しに行かなくてはならないんで・・・。」
町田まで運転しなくてはならない。
「そう。無理には勧めないから安心して。」
ぼくは引き出しから栓抜きを探した。確か捨てていなかったはずだけど・・・。
「あった。」
カオルが栓を抜いている間にぼくは棚から親戚の引き出物にもらったペアのウィスキーグラスを出して洗った。きれいに拭く。
「ごめんなさい、ワイングラス持ってなくて・・・。」
「気にしないわ。これ、ステキなグラスね。」
カオルはコルクと戦っている。
「開いたー。」
カオルは飲む前からテンションが高かった。ぼくはいつも使っているグラスにウーロン茶を注いだ。ジュリアさんとカオルはお互いにワインを注ぎ合っている。ウィスキーグラスの中のロゼワインはとても美しかった。
「じゃあカオルくんの絵に乾杯。」
「カンパーイ!」
グラスをぶつけ合う音。それぞれに飲む。カオルは結構思い切って飲んでいるけど平気か?
「あ、こういうときはナッツが一番。」
「悪い、ここにはないよ。」
「オレ、取ってくる。」
カオルはドアに向かった。
「あ、カオル、ドアは開けといて。」
「了解。」
階段を駆け上がる音が聞こえる。
「じゅんくんって紳士なのね。」
「え?」
「気を使ってくれてるの、わかる。」
ぼくはジュリアさんのグラスにワインを注いだ。
「ぼくはカオル程繊細じゃないんですよ。」
「ラジオを聴いていればあなたがどんな心根の人かわかるわよ。」
カオルが下りてきた。ドアを後ろ手に閉めながら、
「ありました、ミックスナッツ。」
「カオルはリスみたいにナッツ好きなんですよ。」
「リス?」
ジュリアさんがたのしそうに笑った。ぼくは磁器の器にナッツを出した。
「どうぞ。」
「ありがとう。今日はコーヒーもおいしかったしワインもおいしいわ。」
「カオル、よかったね。」
「うん。」
しあわせそうなカオルの顔がうれしい。そのとき、ジュリアさんの目から光るものがこぼれ落ちた。
「ジュリアさん?」
「あ、ごめんなさいね。たのしいのよ。・・・そう。」
カオルもぼくも固まったままジュリアさんを見つめた。
「私ね・・・、大学時代、恋人がいたの。やさしくて・・・いつもそばにいてくれた。それだけでしあわせだったわ。彼は小野寺くんとも仲良しでね、よく三人で出掛けたりしていたの。でも・・・彼は死んだわ。」
ジュリアさんの目から大粒の涙が次々とこぼれ落ちた。ぼくらと三人でいて、思い出したのだろうか。カオルはワインをぐっと飲み、ジュリアさんの髪をやさしくなでた。ぼくはふたりのグラスにワインを注ぐ。
「私、泣き上戸じゃないはずなんだけどな。」
「泣きたいときは泣いた方がいいですよ。」
ぼくが言うと、小さくうなずいた。カバンから薄紅色のハンカチを出して、涙をぬぐった。
「忘れられないの。・・・彼とね、パリへ行く計画をたてていたの。結婚しようって。新婚旅行にパリへ行こうって。私が絵が好きだからパリの街並みをふたりで眺めながらワインを飲もうって。それなのに・・・。」
ジュリアさんは少しワインを飲んでまた涙を拭いた。
「私ね、なぜかカオルくんのこの絵を見たときに思ったの。こんな街並みを見るはずだったんだって。街角には絵を描く人が立っていて、彼と腕を組みながらそんな光景を見るのをたのしみにしてた。カオルくんは私の夢を少しかなえてくれたわ。ありがとう。感謝してるわ。」
ジュリアさんはカオルの肩をそっと抱きしめた。カオルはもうかなり酔っているようだった。それでもうれしそうな、満足げな顔をしてベッドに横になった。目を閉じる。
「カオル、寝るなよ・・・。」
返事はない。しあわせなヤツだ。ジュリアさんは窓辺へ立って外を見た。ぼくも横に立つ。そばにいてあげないと壊れてしまいそうな気がした。
「事故だったの。」
「事故?」
「彼と小野寺くんと三人で海を見に行った帰りだったわ。車でね・・・対向車線から飛び出してきた車にぶつかって・・・。」
ぼくはなにも言えなかった。
「即死だった。小野寺くんと私は怪我で済んだけれど・・・。」
「そんな・・・。」
「相手は飲酒運転の男だったわ。その人は罪を償ったけれど・・・許せないのよ。憎いの。ものすごく恨んだ。でも私が人を恨むことを・・・亡くなった彼は望まないと思ったの。」
「わかります。」
「そんなとき今のオーナーから店をつくる話をいただいて。全部ふたりに任せるって言って下さって、建物から家具やメニューまで、小野寺くんと私はその計画を立てたり開店の準備をすることに神経の全てを集中させたわ。そうすることで忘れられたから。店が出来てからも忙しければ忙しいほど忘れていられた。私が思い出して泣くから小野寺くんは私の名前を呼ばなくなったわ。ジュリアって呼ぶようになって、店に来るお客さんたちも私をその名前で覚えてくれた。がんばらなくても忘れていられるようになってきたの。仕事もたのしいし、常連さんもいい人ばかりだし。でもあの日・・・。」
ジュリアさんは言葉に詰まった。
「じゅんくんをバスからみつけた日。」
「ああ。」
「・・・・・あの男が来たのよ、店に。」
「えっ・・・。」
「忘れることなんかできない、あの顔。しあわせそうに、家族連れで・・・。世間って狭いものね。私、とても接客なんてできない、店にいることもできないくらい動揺したわ。小野寺くんも気が付いて、帰った方がいいって。私、店員失格ね。小野寺くんだって友人を奪われた相手なのに。」
「・・・・。」
「頭の中でいろんなことがグルグル回って、叫びたくなるくらいだった。とにかくそこを離れたくて、来たバスに飛び乗ったの。違うことを考えよう考えようとして外を見ていたらじゅんくんがいたの。」
「そうだったんですか・・・。」
「あのときじゅんくんに抱きしめられて・・・、これは亡くなった彼が下りてきたんだと、じゅんくんをそうさせたんじゃないかと思ったわ。自分の代わりに。彼がそこにいたらきっと同じように抱きしめてくれたはずだもの。」
「ええ。」
「じゅんくんが行ってしまったあと、涙が止まらなかった。今みたいに。」
ジュリアさんはぼくにしがみついて泣いた。
「いろんなことを考えてしまうの。もし彼とあのまま結婚していたら、子供ができていたら、今頃はもう小学生になってるわ。どうして神様は彼だけを連れて行ってしまったの?どうして私も一緒に・・・。」
ぼくはジュリアさんを抱きしめた。あの日のように。いつも笑顔しか見せない彼女にそんな悲しい過去があったなんて。
「じゅんくんに目元が似ているの。いつもやさしく見つめてくれた。」
彼女がすすり泣くのが胸に伝わってくる。
「由衣子・・・。」
ユイコ?
「私の名前よ。・・・一度だけ呼んで欲しい。お願い。」
ぼくは彼女の肩を強く抱き寄せた。
「由衣子。」
「・・・ありがとう。」
ぼくらはしばらくじっと抱き合っていた。
「私、酔ってるみたいね。このことは忘れてね・・・。私もこれで悲しい思い出から卒業しなくちゃ。もう泣かないわ。」
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by whitesnake-7 | 2007-11-21 07:07 | 36.~41.

41.

   その後

 次の水曜日に医者に行ったカオルはまた違う薬を試すことになった。その薬になって数日後、カオルはひとりで自転車でスーパーに行けるようになった。日曜日にはぼくの運転する車で無事にE-CAFEにも行けた。カオルの喜びようはすごかった。その後徐々に薬をのまずにいられるようになってきた。バスや電車に乗れるようになるまでにはまだ時間がかかりそうだけれど。
 カオルは自分の絵が人の力になったことをよろこんで、以前よりも制作に励むようになった。街並みだけでなく、花の絵も描くようになった。その中の一枚は、E-CAFEに飾られた。カオルは個展を目標にするようになった。
 ぼくは中古のプリンタを買った。パソコンで原稿を書くようになり、コンビニのファックスから送り、原稿料は振込みにしてもらった。そうするようになってから、今までより原稿にかける時間が短縮された分、スーパーで朝の品出しのバイトを始めた。ただし、日曜日は必ず休みにしてもらった。まーちんの車でカオルと買い物や公園に行ったり、E-CAFEに行く。ジュリアさんの都合がつけば、ぼくらは五時以降を一緒に過ごしたりするようになった。時にはまーちんと陽子ちゃんも一緒に、五人で。

   七月三十日(木)

 「こんにちは。『立花潤の立ち話』、いつも聴いてくれてありがとうございます。やっと梅雨明けしましたね。これが放送されるのはもう八月。暑い季節がやってきましたね。みなさん、体調には気を付けて下さいね。ではハガキを一枚・・・。東大和市のたいちゃんから。〔じゅんくん、こんにちは。いつもノリノリで聴いてます。三十代の主婦です。先日私の長男一才四ヶ月が公園デビューしました。団地に住んでいて近所付き合いもあまりなく、子供も初めての子なのでとても不安だったのですが、いざ公園に行ってみると若いママたちはとても明るくて、私もすぐに仲間に入れてくれました。すごくうれしかった。子供はまだよくわかっていないでしょうが、新しい社会に一歩踏み出した感じです。年下の先輩ママにいろいろ相談に乗ってもらったり、とてもたのしく公園でのひとときを過ごしています。今度じゅんくんの番組をみんなに教えてあげたいです。〕・・・ハガキ、どうもありがとうございます。今までと違う世界に入っていくのはとても勇気が要りますね。でも良かったですね、まわりがいい人たちで。こういうしあわせそうな話が届くとうれしいですね。新しい友達をたくさん作って、充実した毎日が送れるように応援してますよ。がんばれ。・・・さて、デビューといえば、六月にぼくの親友がライブハウスデビューしたって言ったのを覚えていますでしょうか。ローズっていうバンドなんですけど、彼らがついにCDデビューすることになりました。おめでとう。CDが出来たら真っ先にこの番組で紹介したいと思いますのでおたのしみに。では曲をおかけします。ぼくの大好きなデイヴィッド・カヴァーデイルがコージー・パウエルに書いた曲。コージーのソロ・アルバム『OCTOPUSS』から、『THE RATTLER』。」

   七月三十一日(金)

 ぼくが朝のバイトから帰ってくるとカオルが外で待っていた。
「じゅん、おかえり。」
「ただいま。早いじゃん。なにかいいことあった?」
階段を上る。
「まーちんがね、デビュー・シングルのジャケットの絵を描いてくれって。」
「えー、すごいじゃん。おめでとう。それってプロじゃないの?」
「採用されるかどうかわかんないけど。でもうれしい。」
ぼくの部屋に入る。留守電を解除する。
『用件は、二件です。』
九時半前に二件入っているのは珍しい。
『じゅんくん、おはよう。ジュリアです。・・・別に用事はないんだけど・・・、ただ電話してみたかっただけ。今から仕事です。じゃあまたね。』
「最近よく電話くれるでしょ。オレの方にもさっきあったの。もう起きなさいって。」
カオルがうれしそうに言う。
『えー、お疲れさんです、FMの荒井ですー。こんな時間にもう留守なの?・・・えーと、昨日また電話があって。前にほら、君に取材したいっていう雑誌の人いたでしょ?まだあきらめられないみたいよ。身内の自慢でも宣伝でもなんでもいいから話がしたいんだって。写真は撮らなくていいからって言ってたよ。この際友達のバンドの宣伝でもしちゃったら?八王子のお薦めスポットとかさあ。もしかすると『立ち話』のスポンサーになってくれるかもしれないみたい。そしたら番組のステッカーなんか作れるよねえ。・・・電話待ってます。よろしく。』
聞き終って手を洗う。
「ねえじゅん、ローズの宣伝しちゃえば?」
「・・・そうだね。お薦めスポットもあるしね。」
「どこ?」
「もちろんジュリアさんのトコ。」
「えーっ、それはあんまり宣伝しないで欲しいな。オレらだけの秘密の場所にしておきたいじゃん。」
「それもそうだね・・・。でも充分混んでるじゃない。」
「人から人へ伝わっちゃうんだよ。おいしいコーヒーの店があるって。」
「それがすでに宣伝なんじゃないの?」
「そうだけどさー。」
「ジュリアさんに訊いてみるよ。宣伝してもいいかどうか。」
「そうだね。」
「多摩御陵とか高尾山とか七福神とか・・・。」
「じゅんって八王子市の観光課みたい。コーヒー淹れるよ。上に来て。」

   (二日後)八月二日(日)

 広い草原をカオルとジュリアさんと三人で笑いながら走っている夢をみた。目が覚めて寝返りをうつと、目の前に夢樹が。
「わっ。」
「きゃっ。」
「びっくりしたー。おはよう、夢樹。」
「こっちこそびっくりしたよ。せっかくいい夢みてたのにさ。」
「へえ、夢樹も夢をみるんだ。」
「そうだよ。大きな夢の木の上から世界を見渡している夢だった。」
「・・・日曜日か。・・・ねえ夢樹。」
「なに?」
「今日あの夢の樹の鉢をカオルとジュリアさんにプレゼントしてもいいかな。もちろんひとつはオレの手元に置いておくし、いつかまた増やすからさ。・・・カオルとジュリアさんにもいい夢をみせてあげて欲しいんだ。どう?」
「うん、わかった。」
「じゃあ今日はいいものをプレゼントするよ。」
「ぼくに?」
「そう。」
ぼくはベッドから下りて机の上から箱を手に取った。
「ジャーン。鳥の巣箱キット。」
「鳥?」
「昨日DIYの店で買ってきたんだ。今夜作ってあげるよ。夢樹の家だよ。」
「ぼくの家?」
「そう。中には綿を敷いてあげる。窓も付いてるし、止まり木もあるよ。」
「ホント?」
「作ったらあそこに取り付けようと思うんだ。」
ぼくは部屋の角の天井に近いところを指差した。
「高いところがいいんだろう?」
「うん。」
「いつかぼくが庭付きの家を建てたら、庭に大きな夢の樹を植えて巣箱を付けてあげる。」
「やったー。たのしみにしてるよ。ありがとう。」
夢樹はぼくに夢をみせてくれるだけでなく、夢を与えてくれる少年なのかもしれない。





                    完


                      長い間お読みいただきありがとうございました。
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by whitesnake-7 | 2007-09-12 07:07 | 36.~41.