カテゴリ:31.~35.( 5 )

31.

   六月十九日(金)

 体が痛くて目が覚めた。伸びをすると、後ろで物音がした。振り返ってみるとらんまるがぼくを見てしっぽを振っている。その横でカオルがまるくなって寝ている。らんまるに、しーっ、静かにしてね、と合図する。なんとなくわかったらしい。何時だ?腕時計を見る。六時だ。このくらいの車なら結構寝られるものなんだなあ。食べ物さえあれば暮らせるかも。ぼくはカオルに毛布をかけなおしてらんまるに頬擦りをしてから、車を降りた。
「らんまる、カオルを見張っておいてくれ。」
富士森公園へ入って行き、トイレを借りる。顔も洗う。しまった、車にシェーバーを忘れた。まあいいか。車に戻る。ドアの音が静かなのでたすかる。カオルはかわいい顔でよく眠っている。腕をらんまるの肩にまわしているのでらんまるはおとなしくしてくれている。
「らんまる、もう少しがまんして。」
エンジンをかける。発車。雨じゃなくてよかった。ボリュームを小さくしてラジオをつける。ぼくの出ているFMにチャンネルが合っていた。
 浅川大橋を渡る。道はすいている。なかなか快適なドライブだ。ラジオからはサティかなにかの静かな音楽が流れている。
 多摩大橋を渡る。カオルがなにか寝言を言った。まだ起きるな、もうちょっと。とにかく道はスムーズで、このまま行くと一体何時に着いちゃうんだ?こんな朝から店長はいるのか?
「じゅーーーん。」
お目覚めか?寝言か?
「じゅん・・・あ、らんまるおはよう、くすぐったい。」
ルームミラーを見ると、カオルがらんまるになめられている。
「ぼっちゃまおはよう。気分はどう?」
「うーん、ここどこ?」
「あと十分位で着きそう。」
「え、ホント?・・・あ・・・なんか胸が苦しくなりそう。」
「止まろうか?」
「うん。」
左に寄せて止まる。カオルはデイバッグの中から薬を出して呑んだ。
「大丈夫か?」
「たぶん・・・。」
カオルはらんまるの首を抱きしめていた。
「寒くない?」
「平気。」
「急がなくていい、すぐ良くなるよ。ゆっくり休め。」
カオルは十五分位不安そうにしていた。
「もう大丈夫みたい・・・かな。」
「そうか。よかった。」
「ちょっとタバコ吸ってくる。」
カオルは車を降りた。ぼくもらんまるにリードを付けて外に出してやった。らんまるも伸びをする。立川の匂いをクンクン嗅いでいる。
「ちょっと早いけど、らんまるの朝食にしよう。」
カオルがらんまるにエサをやってからふたりでひげを剃った。
「じゃあ行こうか。OK?」
「OK。」
カオルはタバコの吸殻を小さな袋に入れ、助手席に乗ってきた。
「らんまると後ろに乗らないの?」
「うん。立川を見ておかなくちゃ。今度いつ来られるかわからないから・・・。」
それはきっと切実な気持ちだったのだろう。
十分弱で店に着いた。駐車場に車を止め、らんまるを車に残して店に入る。
「いらっしゃいませー。あら、城石くん!」
ぼくの知らない女の人が言った。
「奥さん、ご無沙汰してます。店長は・・・。」
「ちょっと待って。」
彼女は店の奥へ行った。店長の奥さんか。少しして、店長が出てきた。
「城石くん!」
そう言って店長はカオルに駆け寄って抱きしめた。
「ご無沙汰してます。ちゃんと挨拶に来たくて。」
「立花くんと?」
「ええ、車でだったので来られました。急に来なくなって申し訳ありませんでした。今までいろいろとお世話になりました。ありがとうございました。」
カオルは深々と頭を下げた。
「いや、そんな。こっちこそ今までずっと、本当に長い間力になってもらって感謝してるよ、ありがとう。」
「あの、ぼくはまた午後来ますから。」
「ああ立花くん、たのむよ。今日は休みにしてあげたいところだけど面接があるから。」
ぼくらは朝食にサンドイッチとおにぎりとウーロン茶を買った。店長はカオルの袋にナッツを入れてくれた。しばらく話はとぎれなかった。
「またいつか来ます。忘れないでくださいよ。」
「城石くんを忘れるわけないよ。」
ふたりはいつまでも握手をしていた。
 ぼくらの車が走り出しても、見えなくなるまで店長は手を振っていた。
「じゅん、泣いてもいい?」
「え?・・・ああ、いいよ。」
カオルは涙を流した。ぼくは運転していて見ないようにした。
「本当は辞めたくないよ。」
「うん。」
かけてあげる言葉が見つからなかった。

 額縁を買ってまたバイトに行かなければならないので、朝食を済ませるとストレートに八王子へ帰ってきた。アパートに戻り、絵を車に運び込み、また出掛ける。
「カオル、店までの道をちゃんと教えてよ。」
甲州街道に出てから十五分もしないうちに画材店に着いた。こんなところにあるのか。カオルは慣れたふうに店に入って行く。ぼくも続く。
「いらっしゃいませ。あらステキ。」
カオルの絵を見て女性の店員が言った。
「これに合う額をいただきたいんですが。」
「今お出ししますね。」
彼女は店の中のたくさんの額の中からそのサイズのものを選んでいくつか出してきた。
「これなんかどうかしらね。」
額に絵を当ててみる。額があるとだいぶ雰囲気が違って見える。
「こちらだとこんな感じ。」
別の額に当ててみる。
「もう少し濃い色の方がいいかなあ。」
カオルが言う。
「それならこれは?」
「あ、これが一番マッチしてる気がする。」
絵を額装してもらって、E-CAFEへ向かう。

 E-CAFEに着いたが、開店までにはまだ三十分以上ある。車の後ろかららんまるを出してやると、うれしそうにぼくの腰に前足をかけてきた。
「よしよし、ずいぶんガマンさせちゃったもんなあ。悪かったね。」
抱きしめてやる。しっぽがちぎれそうな程振っている。容器にウーロン茶を少し入れてみたら飲んだ。犬にはミネラル・ウォーターはよくないらしいが、ウーロン茶はどうなんだ?店からはケーキを焼く匂いが甘く漂っている。
「あ、カオル、絵を見てもらいたくない?ジュリアさんに。窓から覗いてごらん、いるんじゃない?」
「いいよ、見せなくても。」
カオルはベンチに座ってタバコに火をつける。ぼくはらんまるを連れて店の中をうかがった。オノデラ・シェフが高いところからなにかを取ろうとしているのが見えた。その時、背中をポン、とたたかれた。
「おはよう。」
ジュリアさんだった。カオルも急に立ち上がる。
「おはようございます。」
「大きな車が止まったと思ったらふたりが出てきたから。あら、カオルくんメガネも似合うのね。」
彼女はらんまるの頬を両手でクルクルとなでた。
「この前のワンちゃんね。」
「らんまるっていうんです。この間ライブをやった町矢の犬なんです・・・あ、この車も。それよりジュリアさん、見て欲しいものがあるんですよ。」
「じゅん、はずかしいからいいって。」
ぼくはらんまるのリードをカオルに押しつけて、車を開ける。
「なあに?」
「これです・・・。」
額の入った箱をよっこらしょ、と出す。ふたを取る。
「わあ。・・・これカオルくんが描いた絵?」
「今、額を買いに行ってきたところなんですよ。なあカオル。」
「ステキステキ、よく見せて。」
カオルの頬が紅に染まる。
「ユトリロの雰囲気ねえ。壁の感じがすごくいいわ。この石畳も。空もきれい。この黒い犬はらんまるくんね。建物の輪郭がフリーハンドっぽくってやわらかいから全体の雰囲気がやさしいのね。カオルくんの性格が表れてるわよ、やさしくて穏やかな。」
「よかったね、カオル。」
「うん。」
「・・・ステキだわ。どこに飾るの?」
「ぼくの部屋です。」
「じゅんくんの部屋?・・・うらやましいわ、こんな絵を飾るの。」
ジュリアさんはしばらくのあいだじっと絵を見つめていた。
「あ、私そろそろ戻らなくちゃ。見せてくれてありがとう。好きだわ、その絵。」
彼女はそう言ってかららんまるの背中をポンポンとさわって、店の裏口へ行った。
「ほら、よかったじゃん、カオル。」
「うん。・・・うれしい。」
カオルはタバコの吸殻を小さな袋に入れた。ぼくは絵をまた箱に納めて車の後ろの席に置く。日が当たらないように毛布を掛けておいた。
ぼくらは店が開くまでベンチに座ってぼんやりしていた。らんまると戯れて。
 十時になると、ぼくらは外につないであるらんまるに一番近い席に座った。
「らんまるとここに来るのも三回目かな。」
ジュリアさんが来て水のグラスをぼくらの前に置く。
「このところ見かけなかったから心配してたの。電話しようかと思ったんだけどなんかはずかしくて・・・。」
「心配してくれてたんですか?ありがとうございます。今日はこの通り元気ですから。」
さっきは元気がなかったけどね、カオル。
「でもまだ発作はあるの?」
「ええ、まあ・・・。そんなに強いのはめったにこないですけど、弱めのがちょこちょこ。」
「そう。苦しいんですってね。早く良くなるといいけれど。」
「ここのランチを食べればバッチリ。えーと、ランチふたつと、ぼくはキリマンジャロ。じゅんは?」
「じゃあ同じで。」
「ランチふたつにキリマンジャロがふたつね。かしこまりました。」
「あ、思い出した。荒井さんに電話してくる。」
ぼくは席を立ってカウンター横の公衆電話のところへ行った。カードを持っていないので十円玉をいくつか入れる。番号を押そうとしたら、ドアのベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。・・・あら、純!」
じゅん?振り返ると明るい茶色の髪の青年がカウンターに向かって歩いてきた。そして大きな声で言った。
「姉貴ー、なんか食わして。恵一さん、お久しぶりッス。」
シェフがウッス、と挨拶した。ジュリアさんの弟か?ぼくが受話器を持ったまま固まっていると、ジュリアさんが彼に言った。
「純、こちらが立花さんよ。」
「えっ!」
まるでマンガのように驚いて、ぼくの顔から足元まで眺めてから、
「マジっすか?お、おはようございます、じゃなくて、もうこんにちはですよね。」
手を差し出してきたので握手をする。彼は握った手をブンブンと振った。
「君がジュリアさんの弟さんの・・・。」
「純です。会えてうれしいッス。ずっとファンなんです。」
「ありがとう。この前は悪かったね。行けなくなっちゃって。」
「いえ、全然気にしないでください。ライブ、サイコーだったッス。」
彼はクリクリした目を輝かせた。
「あそこにいるのがぼくの親友のカオル。」
そうッスか、と言いながら彼は大股でカオルのところへ歩いて行き、なにか言いながら、ぼくにしたようにブンブン振り回す握手をしている。
「じゅんくん、ごめんなさいね。あのまんまの性格なのよ。」
「いい弟さんじゃないですか。」
年を訊くと、ぼくらよりふたつ下だった。彼はカオルのところから戻ってくるとカウンター席に座った。ぼくは我に返って電話の番号を押した。純くんの視線を感じつつ。
「もしもし、立花です。お疲れ様です。荒井さんは・・・、はい、お願いします。」
荒井さんに、例の件は断っておいてくださいと告げ、受話器を置く。
窓辺の席に戻ると、すぐにジュリアさんがスープとサラダを持って来てくれた。
「カオルくんも、ごめんなさいね、単純な弟で。失礼なこと言わなかった?」
「大丈夫ですよ。まっすぐないい青年じゃないですか。」
「ぼくもカオルと同じ意見です。」
「そう?遠慮というものを知らないから困るのよ。」
「だけど性格が良さそう。」
「だといいんだけれど。じゃあ、ごゆっくりどうぞ。」
「いただきます。」
カオルはジュリアさんの後姿をじっと見つめていた。ぼくはコンソメスープの中のベーコンをすくった。
「あ、ねえカオル、オノデラ・シェフの名前、恵一さんっていうらしいよ。」
「え、もっと勢いのある名前かと思ってた。・・・ハヤブサ、とかさ。」
「はあ?」
「恵一かあ。・・・ジュリアさんはなんていうんだろう。」
そう、ぼくらはまだ彼女の本当の名前を知らずにいた。外を見ると、いつのまにか来たオーナーがらんまると戯れていた。カオルは物思いにふけった顔で見ている。
「ねえカオル、発作になったときってどんな感じ?」
「急にどうしたの。」
「次の原稿に取り上げてみようかなーと思って。知らない病気がいっぱいあるんだもん。」
「そうだよね、知らない病気だったもん、自分がそうなるまで。ヒビキも知らなかったよ。」
「ヒビキくんに言ったの。」
「そう。初めて聞いたって言ってた。」
「みんな自分でもわからないんじゃないの?自分がそれなんだってこと。」
「そういう人もいるかもね。オレだってなんの検査してもひっかからなかったもん。」
「京王線でのことは今思い出してもドキドキするよ。」
「オレ、絶対死ぬと思ったもん。大声出して発狂するかと思った。」
「あれからパニック障害の資料を見たりするようになったけど、死の恐怖を味わうって書いてある。」
「例えて言うなら、後ろ手に縛られて足におもりを付けられて海に放り込まれる感じかな。まず、うわーってなって、もがくんだけど浮き上がれない。息は出来ないし、あせればあせる程水をガボガボ飲んじゃう。苦しくてあわてまくる。ああ、死ぬんだなーって思う。」
「医者はなんて言ってるの?そういうときのことは。」
「前の先生は、この病気で死ぬことはありませんからって。」
「でも死にそうに苦しいんでしょ?」
「そう。でも落ち着くようにって。だけどさー、海に沈められて息が出来ないのに落ち着けって、無理だと思わない?それにね、自分が自分じゃないみたいな感じになるんだよ。すごく怖い。このまま狂って死ぬんじゃないかと思う。」
ジュリアさんが来た。
「ああ、苦しい話してたからジュリアさんが女神に見える。」
「あら、女神なんて言われたの初めて。お待たせしてごめんなさいね。」
「あー、おいしそう。チキン久しぶりー。」
「とってもジューシーなお肉よ。あ、オーナー。らんまるくんと仲良しみたいね。」
ジュリアさんはにっこり笑った。女神の微笑み。そのうちオーナーが入ってきた。
「いらっしゃいませ。・・・じゃあスープカップをお下げするわね。」
彼女は手早くカップを持ってオーナーの方へ行った。
「ねえじゅん、鶏肉って縁起のいいたべものらしいよ。ラジオで言ってた。あ、もう『立ち話』やってるころじゃない?録音してるからね、ちゃんと。」
「メカ音痴のおまえがどうして留守録ができるのかわからない。」
「まーちんにセットしてもらったの。放っておけば毎日その時間になると録音されるの。だから『立ち話』がない曜日にも勝手に録音されるけど。」
ここに来るといつも時が止まってしまえばいいと思う。今日もそうだ。
「ところでじゅん、なにで立川へ行くの?」
「なにで?」
「車は夜返しに行くんでしょ?」
「あ、そうか。置く場所がないんだった、忘れてた。」
「じゅんらしくないなあ。全てきちんと考えてるみたいなのに。」
「そんなことないよ。そうか、先に町田へ行ってたらバイトに間に合わないし・・・。車で行って帰りにそのまま町田へ置いてくる。」
ジュリアさんが来た。
「コーヒーお待たせしました。ねえ、おふたりって本当に仲がよさそうね。」
「じゅんが温厚なんで。ラジオでわかるでしょ?じゅんは草食動物みたいな人なんですよ。」
ジュリアさんはたのしそうに笑った。
「そうね、草食動物っていうのはなんとなくわかるわ。」
「でもオレ今チキンを食べましたよ。おいしかったー。」
「ありがとう。フフフ。ごゆっくりどうぞ。」
またカオルはジュリアさんが去るのをじっと見つめている。彼女がカウンターの奥に行ってしまうと、コーヒーカップを左手に持って、鼻に近づけた。
「いい香り。ジュリアさんの淹れてくれたコーヒー、次はいつ飲めるかな。」
そうか。彼にとってここに来るまでの距離はとても遠いのだ。立川の店にも別れを告げてきたが、ここにもしばらく来られないかもしれないと彼は思っているのだろう。ひどい時はゴミを出しに出るだけで発作を起こすくらいだから。いつまでもコーヒーのおかわりをしてここにいたかったが、バイトの時間も迫る。なにか手を考えよう。彼の体に合う薬が見つかるまで。
[PR]
by whitesnake-7 | 2007-11-30 07:07 | 31.~35.

32.

 アパートへ戻ってカオルの絵と布団とらんまるの荷物一式をぼくの部屋へ運んだ。留守電に伝言がないのを確認する。
「カオル、パソコンのゲームやる?あ、この前教えた『ペイント』で遊んだら?」
「うん。落書きするよ。ラジオもつけてって。」
「あるもの適当に食べててよ。三階へ行くたびにらんまるを連れてくの大変だからね。」
「わかった。」
「じゃあ行ってくる。」
ぼくは部屋を出る。らんまるがいるから退屈しないだろう。
 車に乗って、甲州街道の裏道を通って浅川大橋へ。このまま行けば余裕で到着するだろう。・・・と思ったら、やはり多摩大橋の手前あたりからはかなり混んでいた。
 店には時間の七分前に着いた。入口から一番遠い場所に駐車して、店に入る。店長がいたので、会釈する。
「店長、先ほどはどうも。あの、車で来ちゃったんですけど止めさせてもらって大丈夫ですか?今日だけなんですけど。」
「かまわないよ。今日はカオルくんに会えてうれしかったよ。」
店長は仕事をしながらにっこりした。ぼくがロッカールームでエプロンを着けていると、後藤くんが入ってきた。
「あ、立花さん、お疲れでーす。」
「後藤くんも今からなの?早いね。」
「今日面接の人来るんでしょ?女の子がいいなー。今まで女の人はどっちも人妻だったし。城石さんが辞めちゃったのもショックでしたけど。年上なのにかわいいんだもん。」
「カオルは年下から見てもかわいいのか。」
「そう。なんとなく。おばちゃまファンもいっぱいいるし。バレンタインなんか、結構もらうモノもらってましたよ。中には女子高生からも。」
「へえ、知らなかったなあ。後藤くんだってファンがいるでしょ?」
「城石さんに比べたら全然。立花さんももういるんじゃないかな。」
「いやー、どうかな。ぼくは今日の面接の人が決まったら辞めちゃうんだ。」
「マジで?せっかくいいアニキが出来たのに。・・・残念だな。あ、時間だ。」
ふたりで店に出る。
 しばらくすると面接の人が来た。ひとりは後藤くんの期待通り女の子で、もうひとりはぼくよりも年上らしい男の人だった。結局ふたりとも採用になって、女の子の方は今日からもう仕事をするらしい。エプロンをして店長に連れられてきて、野田です、とおじぎをした。かわいい子なのだが笑わない。後藤くんとぼくも挨拶をする。
「後藤くん、レジ教えてあげて。」
店長がそう言うと、後藤くんはハイッと言って彼女にレジのやりかたを教え始めた。ぼくは店長のところへ行った。
「店長、ぼくは・・・今日で終わってもいいですか?」
店長は悲しそうな顔になった。
「そうだね。できることならずっと来てもらいたいけど・・・。仕方ないね。」
「でも、次の人が決まってよかったですね。」
「ああ。」
「じゃあ、品出ししてきます。」
辞めるとなったらなんだか複雑な気持ちになってきた。短い期間だったけど、勉強になったなあ。店長や後藤くんとも仲良くなれたのにもうお別れだ。

 町田へ向かう途中、公衆電話から自分の部屋に電話してみた。もしかしたらカオルが出るかもしれない。・・・出なかった。らんまると出掛けているのかもしれない。次にまーちんに電話したが、まーちんはまだ会社にいた。残業らしい。
 町田に着いて、ガソリンスタンドでガソリンを満タンに入れた。車をまーちんの駐車場に止め、まーちんのアパートへ行き、キーを郵便受けの中に入れた。そこから駅まで歩く。片手に店長のくれた弁当の入った袋を持って。歩きながら、途中にあるコンビニがやけに気になった。あそこにもきっとカオルや後藤くんみたいなコが働いているのだろう。・・・車がなくて、らんまるを返してしまったら、カオルはどうなるのだろう。まだ絵を描く気もないみたいだし、部屋でラジオを聴いてコーヒーを飲んでタバコを吸って・・・。それだけ?どこにも行けずに誰にも会えずに?そんなこと、耐えられない。

 横浜線で八王子へ、それからバスに乗り、アパートに着いたのは午後九時半近かった。郵便受けを覗いていると、
「じゅんくん。」
ヒジカタさんだった。
「こんばんは。」
「お帰り。遅かったのねえ。ちょっと待ってて。」
ヒジカタさんは深めの器に煮豆を持ってきてくれた。
「いつもすいません。いただきます。」
「いいのよ。それより、カオちゃんかわいそうねえ。」
「えっ?」
「バイトしてたお店が閉店しちゃったんでしょ?次の仕事、早く見つかるといいわねえ。」
「あ、そ、そうですね。」
階段を上って自分の部屋をノックする。
「カオル、いる?」
「いまーす。」
ドアを開けると、ラジオからジャーニーの『OPEN ARMS』が流れている。お出迎えのらんまるを抱きしめてやると、しっぽがちぎれそうなくらい振っている。
「ヒジカタさんに煮豆もらっちゃった。メシ、済んだ?」
「まだ。なんだか食べる気がしない。らんまるは食欲旺盛だったけど。」
「店長に弁当もらったからさ、食べようよ。ああ、今日ね、面接でふたり決まったの。だからオレは今日で釈放。」
「そうかー。今までお世話をおかけしましたー。」
「いや、結構たのしかったよ。それよりおまえ、ヒジカタさんにバイト先がつぶれたことにしちゃったわけ?」
「ほかにどう言えばいいか思いつかなかったの。」
「そうだね。・・・店長と後藤くんがよろしくってさ。」
「うん。」
留守電を解除して手を洗う。
『用件は、一件です。』
「あ、それオレだ。」
ツーツーツー。
「カオルが出るかと思ってかけてみたんだ。」
「知らなかった。らんまると外にいたときか、または居眠りしてたときかな。」
「そうだ、それ、開けよう。」
つきあたりの絵。箱に入ったまま置いてある。
「ヒジカタさんに訊けばよかった。釘を打ってもいいかどうか。」
「どこに打つの?」
「あそこの一番上だろうな。壁じゃあ弱すぎる。」
「オレの絵も壁デビューか。」
とりあえず壁に立て掛けておく。何度見てもいい感じの絵だ。
「カオルのおかげでタダでフランスに来たみたい。これ見ながら食べよう。」
小さなテーブルに向かい合って弁当を食べる。
「じゅん、何時に寝るの?」
「うーん、シャワー浴びて、えーと、十時半になっちゃうなあ。」
「じゅんが寝てからもしばらくここにいていい?」
「いいよ、朝まででも。オレ電気ついてても寝られるから。」
「そうだ、さっきらんまるがさあ、じゅんの机の下をクンクン嗅いでたから見たの。そしたらちくわみたいなものが落ちてて、拾おうとしたららんまるが食べちゃった。消しゴムだったような気もするんだけど・・・。」
夢樹だ。小皿にのせておいたのを夢樹が運んで行ったに違いない。
「消しゴムだったら、らんまる大丈夫かなあ。」
「らんまるが消しゴムを食べる程頭の良くない犬だとは思えないけど。」
「じゅんは消しゴムが落ちたのに気が付かないような人じゃないんだけどな。・・・ねえ、もしかしてオレのためにらんまるを借りてくれたんじゃないの?」
「え、違うよ。まーちんが出張だって言ったじゃん。」
「そうだけど。」
「そうだよ。明日ライブだから舞い戻ってくるらしいけどね。」
「じゅん、オレに遠慮しないでまーちんのライブ行っていいよ。」
「うん。でもチケットがもう手に入らないみたい。」
「繁盛してるね。」
「してるね。このまま突き進んで欲しいね。あ、おまえここにいるんだったら風呂入ってく?おまえが入ってくんならお湯を溜めるよ。ひとりで入るのに溜めるのもったいないんだもん。」
「じゃあ入ろうかな。」
「そうしよう。いつもそうすれば経済的だな。カオル、普段ひとりでも風呂に入る?」
「たまーにだな。殆どシャワーだけ。特に夏はね。」
食べてる途中だけど立ち上がってユニットバスへ行く。お湯の出る量がそんなに多くないので、早めに溜め始めないといつ風呂に入れるかわからない。ユニットバスから出てきたら、ドアのところまでらんまるが迎えに来ていた。
「じゅん、そいつオレがトイレに行くたびに迎えに来たよ。」
「カオルが隠れてワルイことしないようにチェックしてたんじゃないの?」
「じゃあおちおちワルイことできないなあ。」
カオルはウーロン茶を一気に飲んだ。
「ごちそーさま。」
「薬、ちゃんと呑んでるか?」
「呑んでる。」
「調子はどう?」
「さっきね、らんまると角のコンビニに行ったの。らんまるをコンビニの外につないで、中に入ったんだよ。ペットボトルのでかいやつをこう、三本持ったとたんに頭中の血がサーッと引いて行く感じがして、動悸がすごくて足がガクガクして。レジが怖くてさ、・・・。あの恐怖はなんなんだろう。結局ペットボトルを元に戻して帰ってきちゃった。それ以上ひどくはならなかったからよかったんだけどさ。店員にあやしまれただろうなー。」
「それって、薬が効いてないのか、効いてるからその程度で済んでるのか、どっちなんだろうね。」
「わかんないけど、辛い。でもらんまるがなぐさめてくれたけどね、ペロペロって。」
「それで自販機でタバコだけ買ったわけね。らんまるの毛布の下に隠さなくったって。」
「ばれてたか。だってじゅん、怒りそうなんだもん。」
「もう少し軽いヤツにできないの?あ、風呂溜まったかな。」
「オレ、見てくるよ。」
カオルがユニットバスへ行くと、らんまるがトコトコついて行った。ぼくはテーブルの上を片付ける。流し台のところに置いてあった夢の樹のグラスの水を取り替える。根がすごく伸びている。白くてキレイだ。枝の一番先の小さな葉も少しずつ大きくなっているようだ。
「じゅん、ちょうどいい溜まり具合だった。」
「そう。先に入っていいよ。」
「あとでいい。じゅん、もう寝るんでしょ?先にどうぞ。オレちょっと上に行ってくる。」
カオルが部屋を出て行ったのを確認して、ぼくは冷蔵庫からちくわを出した。夢樹が突然の侵入者におどろいて取り落とした姿が目に浮かんだ。小さな一切れを小皿にのせる。らんまるの届かないところ、カオルの目につかないところは・・・。ぼくは本棚の上にそれをのせた。ぼくでも見えないから大丈夫だろう。らんまるが不思議そうに見ている。なんだか眠くなってきたけれど、風呂に入る。洗髪しながら考えた。カオルは床屋に行けるのだろうか。コンビニに行けないくらいだから、コンビニよりも拘束される場所は無理だろう。ぼくもそろそろ切りたい頃だけれど、カオルは・・・。カオルはもともと髪は長めにしているし、長髪も似合うけれど。
 風呂から出ると、カオルはらんまるにメガネをかけさせて遊んでいる。
「カオル、あいたからどうぞ。」
「うん。じゅん、もう寝てていいよ。眠いんでしょ?」
「うん、先に寝るわ。風呂、何時間入っててもいいよ。」
カオルは立ち上がってらんまるの首を抱きしめてから、着替えを持ってユニットバスへ。ぼくもらんまるを抱きしめる。大きな犬だ。
 夜中に目が覚めた。暗い明かりの中、カオルはぼくのベッドによりかかって、火のついていないタバコをくわえてぼんやりしていた。そばにはらんまるが横たわって、ラジオがごく小さな音で流れていた。
[PR]
by whitesnake-7 | 2007-11-29 07:07 | 31.~35.

33.

   六月二十日(土)

 やさしい手がぼくの頬に触れる。
「じゅん、どこに行ってたの?心配したのよ。」
ぼくを抱きしめる。やわらかくて温かい。しあわせな気持ちになる。
「かあさん。」
あっ。・・・夢。夢だった。終わらないで欲しい夢というのを最近たまにみる。今のもそうだ。かあさんの顔をはっきり見たわけではなかったが、確かにかあさんだった。夢樹にかあさんと夢で逢わせてもらってから、かあさんがいなくて悲しくなる夢はみなくなった。
 起き上がると、ベッドのすぐ下でカオルが毛布にくるまって丸くなって寝ていた。そして、カオルを温めるようにらんまるが寄り添って寝ている。自分の部屋のベッドに行かなかったのか。天井を見る。照明は消えているし、ラジオも(どうにか)止めたらしい。そっとベッドから下りると、らんまるが目を覚ました。頭を上げてしっぽをフリフリ。
「らんまる、カオルをどうする?」
考えた結果、ベッドに寝かせることにした。華奢なカオルだからぼくでもベッドの上くらいまでなら持ち上げられる。毛布をそっとどけて、いわゆる『お姫様だっこ』というやつだ。カオルはよく眠っていたので成功した。らんまるがベッドの上へ行ってしまったカオルに鼻を近づけてクンクン嗅いでみている。かわいい顔で眠っているカオルに毛布を掛ける。これでOK。
「あれ、六時だよ。バイトのおかげで最近体内時計がおかしいんだ。」
らんまるの水を取り替えて、ユニットバスへ行く。らんまるがトコトコついてくる。そういえば、ちくわ。ぼくは本棚の上の小皿をおろしてみる。まだそのままだった。昼間にちゃっかり持って行くのかもしれないな。また本棚の上に戻しておいた。
 顔を洗ってひげを剃っているうちからずっと原稿の書き出しを考えていた。浮かばない。ユニットバスから出ると、らんまるの歓迎だ。
「さんきゅー。おまえはかわいいよ。」
机に向かう前になにか飲もう。ああ、ジュリアさんかカオルのコーヒーが飲みたいな。結局ミネラルウォーターでがまんした。鉛筆を出す。パソコンが届いてからもまだ原稿用紙に書いている。プロバイダにもまだ加入してない。プリンタもない。下書きだけパソコンでと思ったのだが、来週から、と延ばし延ばしでまだ実行していない。・・・と、らんまるが急に立ち上がって本棚の方を見た。キューン、と鼻を鳴らす。あ、もしかして。ぼくも立ち上がって、本棚の上の小皿を下ろしてみた。なくなっている。ちくわが。
「らんまる、夢樹を見たの?」
しっぽをフリフリ。
「そういえば最初に夢樹を見つけたのはおまえだもんな。」
彫刻の広場のツツジの下で。・・・なんとなく原稿が書けそうな気がしてきた。ぼくはあらためて机に向かった。
 七時まで原稿を書いた。らんまるの朝食タイムなので、ペーパーウェイトを置く。らんまるの食事を終え、原稿の続きを書いていると、電話が鳴った。カオルを見る。起きてない。と思うけど。
「立花です。」
『じゅん、おっはー。』
「まーちんか。いまどこ?」
『ウチだよ。』
「あ、こっちに向かってるとこなの?大変だねえ。どうなの、出張は。」
『ああ、カオルがそこにいるのか。』
「うん。寝てるけど。ほぼ同棲中ってとこ。車さんきゅー。たすかった。」
『こっちこそらんまるがお世話になって。』
「なんかあった?」
『いや、カオルがどうなのかと思ってさ。』
「うん・・・あんまりいいとは言えないな。でも車借りたおかげでいい額が買えたんだよ。いい絵だから今度見に来てよ、オレの部屋にあるから。」
『行く行く。じゅんにもライブに来て欲しいんだけどチケットが入らなくて。』
「いいよ、いつか買うから。・・・あ、車、駐車場に返しておいたからね。出張から戻るまで無事だといいけど。」
『おまえ、慎重だなあ。カオル、寝てるんだろ?』
「そうでなかった場合、まずいから。」
『カオルは愛されてるね。じゃあまた電話するよ。』
「うん。道中気を付けて。」
『ホントに慎重だなあ。』
「おみやげは気にしなくていいから。じゃあね。」
『ウチにいるのにおみやげねえ。じゃあ。』
受話器を置く。嘘をつくのは基本的には好きではない。けれどカオルになにかしてあげたかったから今回はこうなってしまった。良かったと思う半面、どこかで後悔もしている。
 窓を少し開ける。湿った空気が流れ込んでくる。らんまるが足元にいる。不思議な気分だ。一人暮らしなのに、今はひとりと一匹がここにいる。こころがほんのり温かい。
「じゅーん。」
「はいはい、ここにいますよ。らんまる、見ておいで。」
らんまるはベッドまで行くと、前足を掛けてカオルを覗き込んだ。ぼくはまたお湯を沸かす。棚からシリアルを出す。
「じゅん。・・・起きてる?・・・あれ?」
むっくりと起き上がった。
「オレここにいたっけ。」
「おまえがゆかに転がってるのを見かねてのっけてやったの。」
「ありがと。よく眠れたみたい。らんまる、おはよう。メガネがないとよく見えない。」
顔をペロペロされている。ぼくはテーブルの上にあったメガネを渡す。
「カオル、今日はどこで暮らすの?朝食はコーンフレークだよ。」
「ここで暮らす。ジャマだったら言って。退散するから。原稿書けてる?」
「まあね。あ、シェーバー使っていいよ。おまえくらい無精ひげが似合わない男はいないからね。」
「童顔だからって言いたいんでしょ?」
カオルはバスルームへ行った。らんまるがそのドアの前をウロウロしている。ぼくはHYDEのCD『ROENTGEN』をデッキに入れた。まーちんもタイプとしてはHYDEに似ている。ぼくが女の子だったら間違いなくまーちんの追っかけをしているだろう。カオルのかわいいところも好きだけれど。
 カオルが出てきたのでらんまるは立ち上がって歓迎している。
「カオル、ラフなのでよければオレのを着てていいけど。」
「うん。あとで着替えに行ってくる。」
ぼくはふたつのカップにインスタントのパンプキンスープを作った。
「はい、シリアルお好きなだけどうぞ。牛乳も。」
「さんきゅー。じゅん、サクサクのとフニャフニャのとどっちが好き?」
「サクサクがいいな。」
「オレ、どっちも好き。半分サクサクのうちに食べて、あとはフニャフニャになるまで待つの。」
「ぼっちゃまは赤ちゃんですからね、まだ歯が生えそろってらっしゃらないから。」
「そう、まだ永久歯が・・・って、そうやっていつもじゅんに遊ばれる。」
「カオル、いつも笑っていてよ。おまえがたのしそうにしてるのが好き。」
「・・・うん。」
「あとで一緒にコンビニ行こう。でかいペットボトル買うんだろ?」
「うん。」

 ヒジカタさんに許可を得て、釘を打ってカオルの絵を飾った。なかなかいい感じだ。
十一時半頃まで原稿を書いていた。カオルはらんまるとじゃれたり、『マイルド・ライフ』を読んだりしていたが、時々自分の部屋へ戻ったりしていた。原稿用紙を片付ける。
「じゅん、今日みたいに『立ち話』がない日はファンの人もつまらないんだろうね。」
「そうだとうれしいけど、わりとさっぱりしてるのかもね。」
「来週の曲はどんなの?」
「あ、月曜のはいいよ。クイーンの『手を取り合って』だから。前にカオルに聴かせたことあっただろ?火曜日はBOW WOWとCharをかけた。Charもいいねえ。まあ、Charのことを熱く語ってもおまえにはわからなそうだから、そろそろ行こ。」
「うん。頓服薬呑むから待って。」
「まだなにも言ってないのに、らんまるは行く気満々だよ。わかるんだね。」
リードをつける。
「じゅん、先に行ってて。サイフ持ってくるから。」
「下で待ってるよ。」
らんまるを連れて階段を下りると、花崎さんに会った。
「こんにちは。」
「ああ、立花くん。この前の犬だね。」
花崎さんはらんまるの頭をやさしくなでた。らんまるはしっぽで応える。
「写真を始めたんだって?」
「始めたっていう程でもないんですけど、庭の花、撮らせてもらってます。」
「今、西側にナデシコが咲いてるから今度見てごらん。ピンクの花。すぐわかるよ。」
「見てみます。ありがとうございます。」
花崎さんはどこかへ出掛けて行った。
「お待たせ。」
カオルが下りてきた。
「カオル、あとでらんまると写真撮ろう。花しか写してないことに気が付いた。」
「やった。またらんまるの写真!」
アパートを出て歩き始める。空は灰色の雲で覆われている。ぼくがらんまるのリードを持ち、らんまるは左側をトコトコ。後ろをカオルがついて来る。すぐにコンビニに着いた。
「らんまる、ここで待ってて。」
らんまるをつないでいると、カオルが深呼吸をしていた。
「よし、買いだめるぞー。」
「カオル、買いだめるの?」
「だってまた来られなくなるかもしれないもん。」
カオルはコンビニのドアを開け、入って行く。ぼくも続く。
「いらっしゃいませ、こんにちはー。」
店員の女の子がこっちも向かずに言った。カオルはカゴを持って奥の方へ。ぼくもついて行く。カロリーメイトとその類のものをいくつもカゴへ入れている。
「カオル、ホントに買いだめするの?」
「非常食にもなるでしょ?」
ぼくはパンをいくつか選んで、レジへ行った。カオルも飲み物などもかなり溜め込んでレジへ。発作は大丈夫みたいだ。無事に会計を済ませた。外へ出る。
「らんまる、お待たせ。」
らんまるは後ろ足で立って、カオルとぼくに前足をかけた。カオルの持っている袋はかなり重そうだ。またぼくがらんまるのリードを持つ。
「じゅん、オレらんまるの後姿を見ながら歩くのってたのしい。」
「かわいいよね、一生懸命進んでますって感じで。・・・おまえ、袋ひとつ持ってやるよ。」
「大丈夫。もうすぐだし。さんきゅー。」
らんまるが立ち止まったのでぼくらも立ち止まる。すこし匂いを嗅いで、また歩き始めたのでぼくらも歩き始める。
「らんまる、短い散歩で悪いね。あとでまた行こう。」
アパートに着いた。カオルは三階へ、ぼくはらんまると一緒に自分の部屋へ入り、らんまるの足を拭く。留守電を解除しようとしたら、留守電にしていくのを忘れていた。らんまるのリードをはずす。背中をなでてやる。
「まーちんに会えなくて寂しいかなあ。水曜日までがまんしてくれよな。」
ぼくの鼻をペロンとなめた。ぼくは冷蔵庫を開ける。もう十二時を過ぎた。今度は冷凍庫を開ける。ありました、これにいたします。餃子。
「じゅーん。」
カオルが入ってきた。
「カオル、餃子食べる?」
「食べる!主食は持参してきました。」
「まさかもうカロリーメイト?」
「シャケおにぎりとわかめごはんおむすび。」
「そう。・・・オレ梅昆布茶でも飲もうかな。おまえどうする?」
「オレにもちょうだい。」
ぼくは餃子を焼き、湯飲みに梅昆布茶をいれる。
「カオル、おまえの絵、いいよ。部屋に帰ってくるたびに、それと朝起きると異国情緒を感じるよ。」
「そう。オレもその絵はこの部屋に合ってる気がするよ。」
 その日の午後はカオルはめまい気味だと言ってぼくのベッドに横になっていたので、ぼくはらんまるの散歩に三十分くらい出掛けて、あとはパソコンの使い方を研究したりしていた。四時頃から雨が。空は厚い雲。ついに入梅かな。
[PR]
by whitesnake-7 | 2007-11-28 07:07 | 31.~35.

34.

   六月二十一日(日)

 昨日から雨は続いている。ゆうべカオルは八時頃三階の部屋へ戻った。もう十時を過ぎたが、起きているのかどうかわからない。らんまるの朝ゴハンを見にこなかった。今日はらんまるの散歩に行けないな。まーちんは雨の日はらんまるをどうしているのだろう。電話してみようか。でも日曜日だし、まだ寝てるかも。いや、デートの最中かもしれないし。とりあえず・・・カオルの様子を見に行こう。部屋を出ようとすると、らんまるが敏感に反応した。
「わかったよ、おまえも連れてくよ。」
リードをつけて、三階へ。小さめにノックしてみる。
「カオル、起きてる?」
「どーぞ。」
ドアを開けると、カオルはベッドに仰向けになってタバコを吸っていた。
「カオル、ベッドで吸うなよ。危ないぞ。」
「うん。」
気のない返事をして起き上がると、タバコを灰皿に押し付けて火を消した。らんまるの頭に自分のおでこをぶつけて挨拶した。
「じゅん、コーヒー飲む?」
「飲む!おまえのコーヒーずっと飲んでなかったね。」
「そうか、オレずっとじゅんの部屋に入り浸ってたしね。夜中にひとりで飲んでたけど、じゅんに淹れてあげてなかったね。」
「特別おいしいのを頼むよ。」
ぼくはらんまるのリードをドアのノブにつないだ。カオルはやかんを火にかけてからコーヒー豆を取り出す。ふと見ると、イーゼルの上にキャンバスがのっていた。
「カオル、次を描き始めたの?」
ぼくはキャンバスのおもて側にまわる。
「ちょっと下書きしてみただけ。」
「へえー。たのしみだなあ。」
白いキャンバスに黒い線で建物の輪郭が書いてあった。コーヒーミルの音がし始める。ぼくはカオルのテーブルの横の、背もたれのない小さな四角い椅子に座る。カオルが廃材で作った椅子だ。カオルは機械には弱いけど、こういうところに力を発揮する。きれいにサンドペーパーをかけてあるので手触りも悪くない。
「ジュリアさんどうしてるかなあ。」
粉をペーパーフィルターに移しながらカオルがつぶやいた。
「行ってみる?」
「んー、なんていうか、バリアの中に入れられてるみたいなんだよね。アパートを出て、ある地点を越えると苦しくなり始める。帰ろうとすると呼吸も少しずつ楽になったりする。じゃあもう一度行ってみようとしても、やっぱり苦しくなる地点がある。まさにバリアだね。そのバリアが、最悪のときはゴミ置き場までだったわけ。今はE-CAFEはバリアの外。」
ペーパーのなかにゆっくりと円を描くようにお湯を落としていく。
「心配しないで。オレ、こうしてればわりと元気でしょ?多少めまいはするんだけどさ。でも今度の水曜日に医者に行ったら、バリアを広げてくれそうな薬に替えてもらうからさ。」
「そうだね。」
カオルは元気なふりをしているようにも思えた。思い過ごしだといいんだけれど。
「今日のは特に心がこもっておりまーす。」
カオルはサーバーのコーヒーを温めたカップに交互に注いだ。片方を受け取る。
「あー、うまい。やっぱマスターのコーヒーが一番。」
「そうだ、ピスタチオがあるよ。」
カオルはカップをテーブルに置くと、棚の中から皿とピスタチオを出してきた。無邪気に殻を剥いている。
「おまえってリスみたい。」
「アイラブナッツ。」
緑色の粒を口に運ぶ。時々コーヒーをすする。
「カオル、お昼の予定は?」
「昼食のこと?・・・うーん、インスタントラーメン・モードに入っております。」
「そう。オレは残りもののご飯だな。雨がやんだららんまるの散歩に行こう。近いところで。じゃあオレ戻るね。」
「うん。」
ぼくはらんまるのリードをドアからはずして、二階へ連れて戻った。
「らんまる、おまえがずっとカオルのそばにいてくれたらいいのになあ。」
部屋に入ってリードをはずし、らんまるの首に手を回して抱きしめる。温かい。
「水曜日が来なければいいな。」
ぼくはアイアン・メイデンのCDをデッキに入れる。ご飯の残りをチャーハンにして食べた。アイアン・メイデンを聴きながら食事をするなんて、消化に良くなさそうだな。食べ終えると、
「じゅーん。」
カオルが入ってきた。
「らーんまるー。」
らんまるに抱きついている。らんまるもうれしそうだ。ぼくはテーブルの上を片付ける。
「ねえじゅん、らんまるの写真撮った?」
「ああ、まだ。待って、今カメラ出すから。」
カオルはらんまるを持ち上げて言った。
「重ーい。まーちんはいいなあ。こんなでっかくて存在感のあるりこうな犬がいて。」
「散歩に行ってあげたいけど、雨やみそうもないな。」
「ラジオで言ってたけど、梅雨入りしたって。」
「しちゃったか。カメラあった。」
「らんまるのいい顔のを撮ってよ。サイフに入れるから。」
ぼくらはらんまるを座らせたり立たせたり横を向かせたりして、何枚も撮った。
「この、横向きのヤツ、かっこいいじゃん、ねえ。」
「そうだね。今度はおまえも一緒に写れよ。らんまるとツーショット。」
カオルはふざけてらんまるに抱きついたり、前足を持ってみたり、変なポーズをいろいろやった。
「じゅんも撮ってあげる。」
「そう?ここをゆっくり押して。ブレないように肘を固定するようにして。」
何度もボケ写真を撮られたのち、やっとまともなのが二枚撮れた。
「ありがと。ねえカオル、絵の前に立ってよ。画家とその絵の写真を撮りたいの。」
「美術の教科書に載る?」
「載る載る。もう少し左。そこ。いい?はい、三、二、一。」
ふたりでモニターを覗く。
「じゅん、これなら故・城石氏っていうのにも使えるね。」
「変なこと言うなよ。ただいま活躍中・城石氏ね。」
 結局雨は少しの間もやんではくれなかった。ぼくはカオルにパソコンのカードゲームを教えた。カオルはしばらくカードゲームをしていたが、またペイントをやり始めて、油絵では描かないような変な模様を描いたりしてかなり長い間パソコンの前に座っていた。ぼくはその間ラジオでかける曲を選んでいた。スコーピオンズの『MEDIA OVERKILL』をかけた。この感じの曲はいい。クラウスの声はドイツ演歌って感じで魂に響く。スコーピオンズは静かな曲もいいのがある。数曲が終わったところでCDを取り出した。カオルがいるから他のにしよう。棚の奥の方からゴダイゴを見つけた。カオルに似合う曲は・・・『PIANO BLUE』。これならボリュームを少し大きめにしても大丈夫。
「じゅん、その声、聞いたことある。」
「ゴダイゴだよ。いい曲でしょ?」
「これもおふくろさんのコレクション?」
「おふくろのゴダイゴはレコード。このCDは自分で買った。」
「ずいぶんいろいろ持ってるんだね。へヴィー・メタルからなにから。」
「おかげでオレはたのしめるよ。おふくろ、朝ご飯の片付けをしながらきれいな発音で『カトマンズ』なんか歌ったりしてた。『スリーナイン』も聴いたことあるな。タケカワさんのおかげで発音の勉強になったっていつも言ってた。そうだカオル、超笑えるやつかけてあげる。」
ぼくはシングルの中から爆裂聖飢魔Ⅱを取り出した。
「なにそれ、聖飢魔Ⅱじゃないの?じゅんっておかしなのも持ってるんだね。」
「所ジョージのもあるよ。『木造建築21階建て』っていうの聴く?」
「じゅんってハード・ロッカーだと思ってたのになにそれ。」
歌詞カードを見て、カオルはすでに笑っていた。
 カオルとぼく(とらんまる)は、夜の手前までずっといろんなCDやレコードをかきまわしては聴いていた。(途中にらんまるのゴハンタイムを挟んで。)でも最後にはやっぱりデイヴィッド・カヴァーデイルの声が聴きたくなってしまう。静かな『IS THIS LOVE』をかけた。
「これがじゅんの一番好きな人でしょ?」
「うん。たまらない声。オレがおなかの中にいるころから聴かされてた。」
「この前・・・何曜日だっけ、ディープ・パープルかけたよね、ラジオで。」
「『BURN』ね。」
「ああいうのを赤ちゃんの頃から聴いてたのか。」
「幼少時代といえば、おまえの小さい頃が見たいよ。昔からヒビキくんとそっくりなんだろ?」
「同じ服着せられてさ。」
カオルは散乱しているCDを揃え始めた。
「じゅん、おなかすいた。」
「幼稚園児がママを見るような目で言うなよ。なに食べる?乾麺でよければソバがあるよ。あ、おまえ昼も麺だっけ?」
「ソバいいね。オレが茹でてあげる。」
「煮込みにする?」
「つゆにつけて食べる。」
ぼくらは万能ネギを薬味にして、ソバと冷やっこだけの夕食を食べた。あまりにシンプルなので、そのあとで果物とヨーグルトを食べた。
「じゅん、また夜中までいてもいい?じゅんのトコ居心地いいんだもん。」
「らんまるがいるからじゃないのか。」
「それもあるけどさー。じゅんといると落ち着く。」
「じゃあまた風呂入ろう。お湯溜めてくる。」
「オレ、パジャマ持ってくる。」
カオルは三階へ行った。ぼくはユニットバスへ。湯船にお湯を溜める。その間に夢の樹の水を取替え、小皿にネギの端っこを置いて、本棚の上へ。らんまるがぼくの一連の行動をついて歩きながら見ている。米をといで、明日の朝炊けるようにセットする。しばらくすると、らんまるがぼくのシャツの裾をひっぱった。
「あ、いけない。」
ユニットバスへ急ぐ。
「ああ、ちょっと多すぎたけどセーフ。」
ついてきたらんまるの頭をなでる。
「おまえ、オレに教えてくれたのか。いいコだね、ありがとう。」
しゃがんで、抱きしめる。そこへカオルが戻ってきた。
「あ、じゅんのラブシーン見ちゃった。ノックしなくてごめん。」
「オレのラブシーンはめったに見られないんだぞー。あはは。らんまるがね、風呂のお湯がいっぱいなのを教えてくれたんだよ。だから感謝のハグね。」
「なーんだ。愛してるんじゃないのか。」
「そりゃあらんまるのことは愛してるよ。」
カオルはタバコの匂いをさせている。部屋で吸ってきたのだろう。そういえばこの前ここに泊まったとき、火のついていないタバコをくわえていたっけ。
[PR]
by whitesnake-7 | 2007-11-27 07:07 | 31.~35.

35.

   六月二十二日(月)

 かあさんが手招きをしている。
「じゅん、こっちにおいで。早く。」
幼いぼくはかあさんの笑顔をめがけて走る。広い草原、溢れる日差しの中でかあさんは両手を広げている。
「かあさん!」
ぼくはそのやわらかな腕の中に飛び込む。かあさんはぼくをぎゅっと抱きしめる。
「じゅんくん、もう大丈夫よ。」
それはかあさんの声ではなかった。気が付くとぼくはジュリアさんの腕の中にいた。
「じゅんくん、あなたの話し方、好きよ。」
 目が覚めた。夢だ。よく夢をみるようになった。でもジュリアさんが出てきたのは初めてだ。温かくて心地良い夢だった。でもカオルに見られなくてよかった。・・・カオルは?ぼくはベッドで起き上がった。彼はまたぼくのベッドの足元の方で丸くなって毛布にくるまっている。そしてらんまるが寄り添っている。しっぽをパタパタさせた。黒い目がキラキラぼくを見ている。
「おはようらんまる。」
ぼくがそっとベッドから降りると、カオルが寝返りをうった。らんまるが立ち上がる。毛布をどけてカオルをそっとベッドにのせる。毛布をかける。時計を見る。五時。らんまるの水を替えて、バスルームへ。
 バスルームから出ると、相変わらずらんまるがドアの前で待っている。頭をなでる。カーテンを開ける。厚い雨雲で暗い。しとしとと冷たい雨が降っている。ぼくはカオルに毛布をもう一枚かけた。レコードの中からジョン・ロードのソロアルバムを引っ張り出してかけた。
 書き足したり線を引いたりぐちゃぐちゃの原稿をパソコンで清書してみた。あとどのくらい書き足せばいいのかがわかって便利だ。これが仕上がったらまた原稿用紙に書き移さなければならない。プリンタもプロバイダ加入もまだだ。椅子から立ち上がって冷蔵庫の前へ行ったららんまるもついてきた。牛乳をマグカップに注ぐ。それを持ってまた机に向かう。明日になるまでに書き上げたい。
 七時に手を止めて、らんまるを見る。寝そべって目だけぼくをチロッと見たが、急に立ち上がった。ぼくのゴハン?としっぽが語っている。ぼくはカオルの様子を覗く。
「カオル、らんまるのゴハンだよ。」
モゾモゾと動いたが、起きそうもなかった。ぼくはドッグフードを量って器に入れる。お手と待てのあと、徒競走のピストルが鳴った瞬間のようにすばやく食べ始める。
「一日二回だけなんだからもっとゆっくり食べろよ。」
食べるといえば・・・ネギ。夢樹はネギをどうしただろう。ぼくはカオルが見ていないのを確かめて、本棚の上の小皿を下ろしてみる。昨夜のままだ。また本棚の上へ戻す。らんまるは食べ終えた器の匂いをクンクン確かめていた。
「もう入ってないよ。はい、ごちそうさまでした。」
器を洗って、ドッグフードの袋の上に置いておく。
 こんなどんよりとした日は、なにをしてもあまりはかどらないように思う。ぼくはCDを見渡す。・・・次にレコードをあさる。KISSの『I WAS MADE FOR LOVIN’YOU』に針を落とす。ボリュームは小さく。しばらくレコードを聴いてぼんやりしていた。そのうち、炊飯器のスイッチが入る音がカチッと聞こえた。ぼくはさっきの夢を思い出した。夢の中で人が突然入れ替わっていたり、特に普段気にも留めていない人が出演したりすることはよくあることだ。(ぼくだけか?)でも夢樹がかあさんに逢わせてくれてから、かあさんの夢は結構頻繁にみるようになった。ジュリアさんの笑顔もやさしかった・・・。
「んーーー。」
ぼっちゃまのお目覚めか。ぼくはじゃがいもと玉ネギとカットわかめで味噌汁を作った。ご飯も炊き上がった。見ると、カオルはベッドの上に座って首を左右に曲げていた。
「カオル、おはよう。」
眠そうに目をこすっている。コドモみたいだ。ぼくはやかんにお湯を沸かす。
「じゅん。」
「なに?」
「ジュリアさんの夢みちゃった。」
オレも、と言いそうになったけれど言えなかった。
「たのしい夢?」
「ジュリアさんと弟さんがオレの部屋に来て、クマみたいなでかいネコを置いていった。」
「なんだそれ。」
らんまるがベッドに前足をかける。
「らんまる、おはよ。愛してるから足をどけてくれる?じゅん、何時?」
「八時十分。」
「いい匂い。」
「ご飯炊き立てだよ。」
カオルはバスルームへ、そしてらんまるもついて行く。ぼくはテーブルに納豆と海苔を出した。カオルがなかなか出てきそうもないので、先に自分のご飯と味噌汁をよそった。緑茶を淹れる。椅子に座る。カオルが出てきた。
「ご飯と味噌汁、セルフサービスね。」
「あ、味噌汁うれしいな。じゅんが作ったの?あ、じゃがいもだ。」
カオルが向かい側に座る。満面の笑み。
「どうしたの?ハイだね。」
「じゅんの味噌汁と炊き立てご飯があって、ジュリアさんの笑顔が頭の隅に残ってる。」
「後者の影響の方が強そうだね。」
「いっただっきまーす。」
「どーぞ。」
カオルが左手で箸を持つから、向かい合うと鏡を見ているような状態になる。
「ねえじゅん、オレ今日銀行に行かなくちゃ。定期を解約して普通口座に入れるの。そうすればATMでいつでも下ろせるから。」
「そう。じゃあらんまるの散歩ついでに・・・って言いたいけど雨だな。」
「いいよ、ひとりで行ってくるから。」

カオルが出掛けた後、原稿の清書をした。らんまるはぼくの足元でおとなしく横になっている。
つくづく思うのだが、ぼくは要領が良くない。というより、悪い。いや、要領の前に、することが遅いのだ。慎重、と言えば聞こえはいいけれど。自分で認識しているくらいだから、人から見ればそれは確実なことなのだろう。カオルもわりとのんびり屋だから一緒にいて不自由ではないけれど、オノデラ・シェフみたいな人を見ると少々の劣等感を否めない。なぜこんなことを考えているかといえば、今朝の夢を思い出したから。原稿を書く手が動いていない。はあ。ジュリアさんは元気かなあ。金曜日に会って以来だな。・・・どうしてジュリアさんのことを考えてしまうんだろう。夢だ、夢に出てきたから・・・。
らんまるが立ち上がった。
「なに?トイレか?」
トコトコと本棚の前へ。床に鼻をつけてクンクン嗅いでいる。ぼくも椅子から立ち上がってらんまるの鼻先を見に行った。・・・あ。小皿にのせておいたネギの切れ端が落ちていた。
「夢樹、いるの?」
ぼくはネギを拾って小皿を本棚から下ろした。ネギをよく見ると、ネズミがかじったような小さな跡があった。食べてみたものの、どうやらお気に召さなかったらしい。らんまるがぼくのそばでしっぽを振っている。
「よく見つけたね。」
頭をなでる。夢樹が夜行性ではないらしいことはわかってきた。
 気を取り直して机に向かう。清書するだけだから気は楽だ。その時、ノックが。
「じゅん、入るよ。」
カオルだ。
「ただいま。」
「おかえり。」
「ダメだった・・・。」
「銀行が?」
「用紙に記入して・・・それはいいんだ。でも窓口に行こうとすると全身の血が引いてくような感じになって動悸がして手足が震えて、すごく怖い。だからしばらくおさまるのを待ってみたり、椅子に座ってみたり。でもどうしても窓口に行けなくて、結局ダメだった・・・。」
「頓服は呑んだの?」
「呑んだ。でもダメだったの。まだ少しドキドキしてる。」
「銀行に行くのは水曜日以降にしようよ、医者で薬を違うのにしてもらってから。」
「うん・・・。」
カオルは胸を押さえた。
「平気か?」
「ひとりでいたくない。じゅん、ベッド借りていい?」
「いいよ。」
カオルがベッドに座り込むと、らんまるが彼の膝に鼻を近づけた。
「らんまる、心配してくれてんの?」
カオルはしばらくらんまるを抱きしめていたが、そのうちベッドに横になり目を閉じた。

   六月二十三日(火)

 昨夜もカオルはぼくの部屋に泊まった。今日は雨は降っていない。雲は相変わらず空一面に広がってはいる。ぼくは出来上がった原稿を封筒に入れた。七時にカオルを起こしてみた。
「カオル、起きて。らんまるのゴハンだよ。あと四回しか見られないよ。」
ぼくはカオルの華奢な腕をひっぱって上体を起こした。ほのかにタバコの匂いがする。カオルは大きなあくびをして、伸びをした。ぼくがドッグフードを量っていると、横に来てしゃがみこんだ。カオルがお手と待てをさせる。らんまるはフードをじっと見つめて待っている。
「よし。・・・おまえはいいヤツだなあ。」
そう言ってカオルは自分もらんまると一緒に食べそうな程近づいて見ている。
「らんまる、らんまる、らーんまるー。」
変な歌を作って歌っている。無邪気。どうして彼があんな病気にならなくてはならないんだろう。神様は彼になにを試しているのだろう。世の中にはきっと数えきれない程の腑に落ちない病気の人がいるのだろう。
「おいしかった?らんまる、おなかいっぱいになったの?」
「なったよ、きっと。だから顔洗ってきたら?」
「そうか。」
彼は素直にバスルームへ行った。ぼくはらんまるの器を洗ってから、冷凍庫から出した食パンをトーストし、カップスープを作った。カオルが出てきた。
「カオル、パンにつけたいモノ、適当に出して。」
「了解。」
テーブルの上が寂しかったので、たまごを焼く。
「カオル、先に食べてていいよ。トーストは熱いうちが最高。」
「うん。でも待ってる。」
「すぐ焼けるから。たまごは塩?」
「醤油。」
「半熟ね。出来ましたー。」
カオルが皿を出してきた。缶のウーロン茶をグラスに注ぐ。
「いい感じの半熟だー。立花シェフ、うまいねえ。」
「じゃあ明日から目玉焼き屋でも始めよう。詳細はあとにして、食べよう。」
「いっただっきまーす。」
カオルはトーストに左手でバターをつけた。
「じゅん、今日新宿行くの?」
「考え中。コンビニのファックスで済ませようかとも思うけど、原稿料を受け取りに行かないとね。・・・おまえ、今日は調子どう?」
「軽いめまいは慢性化してるけど、特に苦しくはないよ。新宿行ってきていいよ、らんまると近所を散歩するから。雨、平気でしょ?」
「今日は降らないみたいだね。」
カオルはあと半分のトーストにマーマレードをのせている。
「おまえと食事をしてると平和を感じるよ。ああ、やっぱり新宿行くのやめた。らんまると散歩する。」
「仕事よりらんまる?」
「仕事は済んでるんだからいいの。せっかく雨がやんでるんだもん、らんまるは明日までしかいないし。」
「じゃあコンビニ経由で散歩ね。」

 車の来ない裏通りでは、カオルとぼくがらんまるをはさんで歩く。
「じゅん、どこのコンビニからファックスするの?」
「どこでもいいよ。おまえも買うものあるんだろ?」
「うん。たまには変わったトコに行きたいな。売ってるものが違うからおもしろい。」
「あの八百屋の近くの店に行こう。カオル、絵のほうはどう?」
「うん。下書きはだいたい終わった。」
「たのしみにしてるからさ。また時々覗きに行かせてもらうけど。」
「午後コーヒー淹れるよ。」
「やった。」
しばらく行くと、コンビニに着いた。カオルも今のところ大丈夫そうだ。らんまるを公衆電話のポールにつないでおく。店に入る。カオルはレトルト食品を見ている。ぼくは編集部にファックスを送ってから、牛乳とパンとヨーグルトなどを持ってレジへ。何気なく外を見た。あれ、らんまるが・・・。
「カオル!らんまるが!」
中学生くらいの男の子ふたりがらんまるを引っぱって連れて行こうとするのが見えた。らんまるが吠える。ぼくは店を飛び出した。
「じゅん!」
カオルも追いかけてくる。男の子達は100メートルくらい先にいたが、らんまるが抵抗しているので思うように逃げられない。ぼくが追いつきそうなのを感じて、らんまるのリードを離して全速で逃げていった。らんまるはぼくの方へ走ってきた。抱きとめる。
「よーし、いいコだね。怖くなかったか?」
「じゅん、・・・よかった。」
カオルが追いついてきて言った。
「犬どろぼうっているんだね。」
「らんまるはいい犬だからなあ。もっと気をつけてやればよかった。・・・カオル?」
「あ・・・。」
その場にしゃがみこんだ。
「どうしたの、発作か?」
カオルはデイバッグの中から薬を取り出した。震える手で口に入れる。
「落ち着いて。オレがいるから。」
「じゅん、怖い、死ぬかもしれない。苦しい。」
「大丈夫だ、今薬が効いてくるから!ゆっくり息を吸って、もう少しの辛抱だよ!」
カオルの手を握り締める。背中をさする。らんまるがカオルの手をなめている。
「じゅん、どうしよう、苦しい。気が狂うかも。」
「大丈夫、大丈夫だから!すぐ良くなる!」
カオルはしばらく青ざめた顔で苦しそうにぼくの手を握り返していたが、やがてその力が弱まった。ゆっくりと何度も深呼吸をした。
「ふうっ。きつかった・・・。」
弱々しい声でカオルは言った。
「まだ心臓が。・・・そう、前にもこういうのがあった。発作になると心臓がドキドキするんだけど、その逆に、心臓がドキドキしてると発作を誘発しちゃうんだ。」
[PR]
by whitesnake-7 | 2007-11-26 07:07 | 31.~35.