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39.

走っていこうとしたけれど足が動かない。ぼくは叫ぼうとした、カオル!そのとき耳元で声がした。
「呼んじゃダメ!彼を呼んだらだめだ!河の向こうへ行ってしまうよ!」
ぼくは驚いて自分の左肩を見た。
「夢樹!」
本物の夢樹だ!ぼくの肩に確かに立っている。これは夢なのか?
「夢じゃない。早くここを離れて!見ちゃだめだ!」
「でもカオルが!」
「呼んじゃだめ、彼は大丈夫、ここを離れるんだ、早く!」
ぼくは言われるままに今来た道を走って戻った。バス通りで立ち止まった。肩で息をする。ぼくが想像したようなことをカオルはしようとしていたのだろうか。
「夢樹、カオルは・・・。」
肩の上にはもう夢樹の姿はなかった。本当に戻ってきてしまって良かったのだろうか。迫り来る電車の前にフラフラと出て行くカオルの姿が浮かんでは消えた。
「じゅんくん?」
聞き慣れた声がやさしくぼくを呼んだ。かあさん?
「やっぱりじゅんくんだ。」
「ジュリアさん!」
ジュリアさんがぼくを見上げていた。ぼくの中の張り詰めたなにかが少し溶け始めた。
「バスから見えたから。今日は店がすいてたから早く帰って来ちゃったの。ちょっとお買い物しようかなーと思って・・・。」
その瞬間、ぼくはジュリアさんを抱きしめていた。頭の中は混乱を極めていた。そこへかあさんのようなぬくもりが天から降ってきたのだった。彼女を抱きしめたのが一瞬だったのか数分だったのかわからない。我に返ってぱっと手を離した。
「あ、ご、ごめんなさい!すごく混乱していて・・・ごめんなさい!」
それだけ言うのが精一杯だった。落とした傘を拾って、彼女の顔も見ずに逃げるようにアパートへ帰った。
部屋に入ると、冷たい水で顔を洗った。何度も。ぼくはなにをしているんだろう・・・。
「夢樹?いるの?」
返事はなかった。ぼくは乾いたタオルで顔と髪を拭いた。留守電にはなにも入っていなかった。ヒビキくんにどう言えばいい?彼の胸騒ぎは間違いなくあれだったんだ。廊下に物音を感じて、ドアを開けた。三階へ行ってみる。さっきの宅配の箱が置いてある。・・・カオルのおふくろさんからのものだ。ぼくは二階へ戻った。ドアを閉めようとしたとき、誰かが階段を上がってくる音がした。ぼくはドアを細く開けて様子を伺った。足音は三階へ上がって行く。カオルだ。ぼくはそっと廊下に出た。カオルから見えないようにそっと階段に寄る。少しの沈黙の後、すすり泣く声が聞こえてきた。カオルが泣いている。あの箱を目にしたのだろう。ぼくは静かに自分の部屋へ入った。壁の絵を見て涙が溢れた。

   七月一日(水)

 電話のベルで目が覚めた。時計を見ると八時半を過ぎていた。昨日なかなか眠れなかったから・・・。
「立花です。」
『じゅん、寝起き?』
「ああ、まーちん、おはよう。」
『あのさ、突然なんだけど、陽子が免許取ったんだよ。それで彼女車買ったの。』
「へえ。」
『だから日曜はそっちに乗るからさ、毎週オレの車貸してあげられるよ。』
「ホント?すごいすごい、それたすかるよ。」
『いつもおまえにばっかり頼んで悪いけどさ、カオルのことよろしくね。』
「うん。頼りないけどね。でも車はホントたすかるよ。オレ、レンタカーでも借りようかと思ってたんだ。」
『そんなに喜んでくれるとうれしいな。』
「らんまるは元気?」
『元気元気。また預かってもらうときはよろしく。じゃあ、そういうことで。』
受話器を置く。窓辺に行く。降り続く雨。今日から七月だ。ぼくは夢の樹の鉢の土が少し乾いているのに気が付いた。やかんに水を汲んで、静かに土に水をやる。三つの鉢は仲良く等間隔に並んでいる。たまには順番を入れ替えた方がいいかな。ぼくは鉢を動かした。そのとき、鉢を取り落としそうになった。夢樹が座っていたのだ。
「やあ、じゅん。おはよう。」
「お、おはよう。」
夢か?もうすぐ目が覚めるのか?
「夢じゃないよ。夢の樹を大切にしてくれてありがとう。」
「ああ、・・・・・。」
ぼくはなかなか言葉にならない声を発しながら、昨日のことを思い出していた。
「夢樹、昨日は、あの、ありがとう。ゆうべいろいろ考えたんだ。もしあのときオレがあいつの名前を叫んだら、あるいはそれが彼の背中を押すことになっていたかもしれないって・・・。」
夢樹は黙っている。
「君がいてくれて良かったよ。そう、多分・・・。」
夢樹は夢の樹の葉を一枚取った。小さくちぎって、口に入れた。
「ねえ夢樹、どうしてオレの前に姿を見せ始めたの?前は夢の中だけだったのに。」
ぼくは彼の前に掌を差しのべた。彼はその上にそうっとのった。
「信用しても大丈夫だと感じたから。ぼくの存在も夢の樹のことも信じてくれたでしょ?」
「でもそれは君がそういうふうに導いていったからで・・・。」
「だけどただの偶然のつながりだと思ってしまえばそれで済んでしまったわけでしょ?じゅんは夢の樹の枝もちゃんと取ってきてくれたし、時々ぼくに食べ物を置いておいてくれた。ああ、この前のはちょっと辛かったけど。」
「ごめん、葉っぱが食べられるならネギも平気かなと思ったんだ。ちくわは・・・、あの茶色っぽいのはおいしかっただろう?」
「うん。ひとつめはあの黒い犬にプレゼントしちゃった。ツツジのところでぼくの居場所を見つけてくれたお礼にね。彼はぼくを覚えていてくれたよ。」
「君はらんまると話が出来るの?」
「ううん、感じるんだ。」
ぼくは夢樹を掌にのせたまま、やかんを置いて椅子に座った。夢樹を机の上に下ろすと、彼はそこにあった鉛筆に腰掛けた。
「夢樹はどこで寝るの?」
「夢の樹の穴の中に枯葉や鳥の羽根を敷いてそこに。でもあの樹が切られてしまってからは・・・時々ここに泊まらせてもらってた。」
「この部屋に?」
夢樹には訊きたいことが山ほどあったが、今はこのくらいにしておこう。
「夢樹、なにか飲む?」
「いらないよ、この葉っぱは水分がたっぷりあるから、これさえあれば大丈夫。」
「そうなの?」
彼はおいしそうに夢の葉を食べる。
「仕事、するんじゃないの?」
「え、うん。でも今日はそんな気になれないな。」
カオルはどうしているだろう。様子を見に行った方がいいかな、でも昨日の今日だし、そっとしておいた方がいいか・・・。
「彼なら大丈夫だよ。向こうからなにか言ってくるよ。」
「君はぼくの考えていることがわかるの?」
「すごく近くにいる人のことはぼんやりとね。」
彼はぼくを見上げた。ぼくは掌を差し出す。彼はぼくの掌から腕を伝って肩にのった。
「そうだ、オレ、ジュリアさんに謝らなくちゃ・・・。」
まだ店は始まっていない時間だし、電話してみようか。でもなんて言えば・・・。もしもし、の次が見つからない。開店の準備中だろうから、店が終わってからにしよう、と自分に言い訳をした。ベッドに座ったら夢樹がぼくの腕をスルスルと下りてそこへのった。
「人間の考えることってすごく複雑なんだね。」
「え?」
「じゅんの頭の中はいろんなことがグルグルしてて難しいよ。」
「うーん。人間は複雑かもしれないね。でもどうして人間の言葉がわかるの?」
「夢の樹の下を通る人って結構多かったよ。いろんな話をしながらね。だから覚えた。」
「君は頭がいいんだな。」
夢樹は枕の上に丸くなった。
「ちょっと眠るね。」
「どうぞ。」
ぼくは冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを出し、それを持って窓辺に行った。雨に打たれる庭を見る。ピンク色のユリが咲いている。雨を歓迎しているように。
 電話が鳴った。胸がドキンとした。
「立花です。」
『じゅん、おはよう。』
カオルだ!なんて言えばいい?
「ああ、お、おはよう。」
『・・・ねえ、コーヒー飲みにこない?』
「行く行く。すぐ行くよ。」
受話器を置くとすぐ留守電に設定して部屋を出た。階段を上りながらヒビキくんのことを考えていた。ヒビキくんにはありのままを伝えるしかなかった。彼は胸騒ぎの訳も知ったし、カオルが無事に戻ったことも。ヒビキくんはぼくに電話したことをカオルに言わないでくれと言った。そしてなにも聞かなかったことにしておいてくれと。
「カオル、入るよ。」
「どーぞ。」
いつもの人なつこい声。ぼくは彼になにもしてあげられなかったことが悔しくてならなかった。思い詰めている彼をどうしてもっと早くわかってあげられなかったのだろう。それでも精一杯普通の顔をした。なにもなかったように。
「じゅん、おふくろからまた食糧が届いたんだよ。もう朝ご飯食べちゃった?」
「ううん、今日はちょっと起きるのが遅かったんだ。」
「オレは早いでしょ?変な夢みちゃってさ。」
カオルはまぶたが少し腫れていた。昨日はだいぶ泣いたのだろう。
「そうだカオル、朗報だよ。まーちんから電話があってさ、毎週日曜日に車を貸してくれるって!」
「マジで?」
「陽子ちゃんが免許取ったんだって。それで車を買うからって。」
「じゃあもしかしたらE-CAFEにも行けるかなあ。」
「行ける行ける。額縁買ったときも行けたじゃん。ドライブしようよ。」
「なんか希望が湧いてきた。ジュリアさんに会えるんだ。」
カオルはうれしそうに豆を挽き始めた。そう、そういう顔が見たかったんだ。ぼくは胸の奥がジンとした。ラジオから流れるサイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』に涙が出そうになった。慌てて棚の方へ行き、カップを出す。
「じゅん、オレじゅんとコーヒー飲むときって好きだよ。」
「オレもおまえのコーヒーが好き。」
カオルは挽いたコーヒーをペーパーフィルターに入れる。
「ねえじゅん、オレ昨日ね・・・」
ドキッとした。なにを言うつもりなんだろう。少しの沈黙の後、カオルは続けた。
「・・・ずっと考え事してたの。先週医者に行ったとき言われたんだよ、まるっきり以前のままの状態まで治ろうとしなくてもいいんじゃないかって。それ聞いたとき、愕然としたの。もう前みたいには戻れないのかって。好きなところにも行けない、会いたい人にも会えない、仕事も出来ない、世の中の役にも立たない。じゃあオレはなんなんだろうってさ。先生はね、元通りに戻ろうとすると出来ない時にギャップに苦しむからっていう意味で言ったらしいんだ。合う薬を探しながら、出来る範囲の中でたのしみを見つけていけばいいんじゃないかって。でもそんなふうには思えなくて、すごく落ち込んでた。体はだるいし、どんなに寝ても眠いし、こんな状態でなにが出来るのか、ただ寝て起きて食べてまた寝るだけ。でも昨日外に出て思い出したんだ。じゅんが言ってくれたこと。」
「オレが?」
「そう。」
サーバーにはふたり分のコーヒーが溜まった。
「じゅんはオレに、これは神様が絵を描く時間を与えてくれたんだと思えばどうかって言った。それを思い出したの。」
「ああ、そんなこと言ったっけね。」
「オレは自分に絵の才能があるとは思ってないけど、例えば銀行で定期が解約できなくて苦しかった時も、それは神様が、そんなことしていないで絵を描きなさいって言ってるんだなと思えば少し救われる気がするんだ。」
カオルはカップに交互にコーヒーを注ぐ。そして片方をぼくの前に置いた。
「だから昨日はじゅんにたすけられたよ、心の中がちょっとすっきりした。」
「そう。だったらオレもうれしいよ。」
ふたりでコーヒーを飲む。
「いつか神様が満足してくれるくらい絵を描いたらこの病気から開放してくれそうな気がするんだ。」
涙をこらえるのが精一杯だった。
「先生もね、治らないと決まったわけじゃないとは言ってくれたけど、発作が起きた時の対処法をなんとか見つけて、病気とうまく付き合いながら少しずつ行動範囲を広げて行くようにって。」
「うん。手伝えることがあったら言ってよ。」
「ありがと。これ、おふくろが送ってきたの。箸持ってくるね。」
ぼくらはカオルのおふくろさんが送ってくれたもので朝食を済ませた。
「そうだ、じゅんにも来てた。」
「え?」
「これ。」
紙袋に『潤くんへ』と書いてある。開けてみると、オフホワイトのポロシャツが入っていた。
「この前もオレもらったっけ。」
「じゅんにはお世話になってるから。ちなみにそれ、オレと色違いだ。ほら。」
淡いブルーのを広げて見せる。
「カオルとペアルックなわけね。」
「そうみたいよ。」
「おふくろさんに電話したらお礼を言っておいてよ。」
「うん。・・・昨日の夜ね、ヒビキに電話したんだ。」
えっ?
「ヒビキも時々調子が悪いって言ってた。多分オレの方の影響らしいって言っておいたよ。」
「ヒビキくんは発作にはならないの?」
「ならないみたい。でも声は元気そうで良かった。」
カオルが無事でいたことの方がヒビキくんにはよほどうれしかったに違いない。
「ついでにタマキにも電話したの。ピアノの上にケータイを置いてもらってピアノ聴かせてもらった。」
「おふくろさんにも電話すればいいのに。」
「なんかはずかしいじゃん。伝言はタマキに言っといたから。バイト辞めたことも。」
「店がつぶれたからって?」
「そう。あはは。店長には悪いけど。だからしばらくはプー太郎だよって。」
「病気のことは言わないの?」
「それは・・・うん、ヒビキにだけしか。」
「そう。」
「じゅん、今日はどうするの?執筆?」
「ううん、床屋に行こうと思って。」
「だいぶ伸びたもんね。オレに遠慮して行かなかったんでしょ?」
「違うよ。」
「オレ、もう少し伸ばすことにしたから。仕事してたら伸ばせないでしょ?仕事にもよるけど。だからプー太郎の特権ってことで。」
「おまえは長いのも似合うよ、オレと違って。」

 床屋から帰って来て部屋に戻り、留守電を解除する。
『用件は、二件です。』
・・・ツーツーツー。一件目は用件を言わずに切れていた。おやじからかな・・・。もう一件を聞いて心臓が高鳴った。
『もしもし?じゅんくん、ジュリアです。・・・あの、今休憩中で。さっき無言電話しちゃったの、私です。なにを言っていいかわからなくて。えーと・・・また夕方にでもかけなおします。』
ジュリアさん・・・。昨日のこと、どう思っただろう。怒ってなさそうだけど・・・。ずいぶん突然失礼なことしちゃったから、きっとびっくりしただろうな。時計を見る。四時。あと一時間でジュリアさんの仕事が終わる。夕方かけなおすって言ってたけど、こっちから電話した方がいいんだろうな・・・。直接会ってあやまった方がいい?でもどんな顔して会えばいいんだ。ふとベッドを見た。夢樹はいなかった。ジュリアさんに電話・・・。でも、どこまで話せばいいのだろう。カオルのことは・・・言えない。
 五時十五分に、決心して電話した。彼女が教えてくれたケータイの番号を押す。
『もしもし?』
「あ、あの・・・立花です、じゅんです。」
『じゅんくん?あ・・・ちょっと待ってね。』
「はい。」
しばらくの沈黙があった。
『ごめんなさい、ここなら大丈夫。』
「今、忙しくなかったですか?」
『ええ、大丈夫。』
落ち着いた声。
「あの、ぼく、昨日は突然すいませんでした。ちょっとショックなことがありまして・・・。すごく混乱してたんです。そこにあなたが現れて、なんだか糸が切れたようになっちゃって・・・。」
彼女は黙っていた。
「ぼくは小さいときに母親を亡くしてるんですけど、時々ジュリアさんにその面影を感じるんです。失礼かもしれないけど・・・昨日も。」
そこまで言って、言葉を失った。しばらくして彼女が話し始めた。
『昨日のことは気にしないで。実は私も昨日はちょっと・・・。店がすいてたからなんていうのは嘘なの、ごめんなさい。ちょっと仕事が出来るような精神状態じゃなくて早く帰らせてもらったの。そしたらバスからじゅんくんが見えて。私もね、ある人の面影をじゅんくんに感じているの。とても大切な人・・・。だから、こんなこと言うのはどうかと思うんだけど・・・昨日はうれしかったの。』
「えっ?」
『もちろん、変な誤解はしてないから心配しないで。今度ゆっくり話したいと思ってるの。ねえ、あの絵はじゅんくんの部屋に飾ってある?』
「ええ。」
『私ね・・・もう一度見たい。』
「あ、じゃあ・・・見に来ますか?」
『いいの?もしも迷惑でなかったら行きたい。もちろん、ふたりで会うのはじゅんくんだって困るでしょうから、カオルくんがいるときに。確か一緒のアパートに住んでるんだったわよね。』
「ええ。じゃあ日曜日はどうですか?」
『本当にいいの?』
「もちろん。日曜日にE-CAFEへ行こうと思ってるんです、カオルと。だから帰りに一緒に・・・。」
『うれしい。・・・私ね、カオルくんにも電話してみたのよ、昨日。でも出なかったの。』
「そうですか。カオルにも言っておきます。よろこびますよ。」
『なんか気持ちが晴れたわ。どうしようかってずっと考えてたから。』
「ぼくもです。」
『じゃあ日曜日に。』
「店に行きます。」
『ありがとう。』
by whitesnake-7 | 2007-11-22 07:07 | 36.~41.
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