六月二十二日(月)
かあさんが手招きをしている。 「じゅん、こっちにおいで。早く。」 幼いぼくはかあさんの笑顔をめがけて走る。広い草原、溢れる日差しの中でかあさんは両手を広げている。 「かあさん!」 ぼくはそのやわらかな腕の中に飛び込む。かあさんはぼくをぎゅっと抱きしめる。 「じゅんくん、もう大丈夫よ。」 それはかあさんの声ではなかった。気が付くとぼくはジュリアさんの腕の中にいた。 「じゅんくん、あなたの話し方、好きよ。」 目が覚めた。夢だ。よく夢をみるようになった。でもジュリアさんが出てきたのは初めてだ。温かくて心地良い夢だった。でもカオルに見られなくてよかった。・・・カオルは?ぼくはベッドで起き上がった。彼はまたぼくのベッドの足元の方で丸くなって毛布にくるまっている。そしてらんまるが寄り添っている。しっぽをパタパタさせた。黒い目がキラキラぼくを見ている。 「おはようらんまる。」 ぼくがそっとベッドから降りると、カオルが寝返りをうった。らんまるが立ち上がる。毛布をどけてカオルをそっとベッドにのせる。毛布をかける。時計を見る。五時。らんまるの水を替えて、バスルームへ。 バスルームから出ると、相変わらずらんまるがドアの前で待っている。頭をなでる。カーテンを開ける。厚い雨雲で暗い。しとしとと冷たい雨が降っている。ぼくはカオルに毛布をもう一枚かけた。レコードの中からジョン・ロードのソロアルバムを引っ張り出してかけた。 書き足したり線を引いたりぐちゃぐちゃの原稿をパソコンで清書してみた。あとどのくらい書き足せばいいのかがわかって便利だ。これが仕上がったらまた原稿用紙に書き移さなければならない。プリンタもプロバイダ加入もまだだ。椅子から立ち上がって冷蔵庫の前へ行ったららんまるもついてきた。牛乳をマグカップに注ぐ。それを持ってまた机に向かう。明日になるまでに書き上げたい。 七時に手を止めて、らんまるを見る。寝そべって目だけぼくをチロッと見たが、急に立ち上がった。ぼくのゴハン?としっぽが語っている。ぼくはカオルの様子を覗く。 「カオル、らんまるのゴハンだよ。」 モゾモゾと動いたが、起きそうもなかった。ぼくはドッグフードを量って器に入れる。お手と待てのあと、徒競走のピストルが鳴った瞬間のようにすばやく食べ始める。 「一日二回だけなんだからもっとゆっくり食べろよ。」 食べるといえば・・・ネギ。夢樹はネギをどうしただろう。ぼくはカオルが見ていないのを確かめて、本棚の上の小皿を下ろしてみる。昨夜のままだ。また本棚の上へ戻す。らんまるは食べ終えた器の匂いをクンクン確かめていた。 「もう入ってないよ。はい、ごちそうさまでした。」 器を洗って、ドッグフードの袋の上に置いておく。 こんなどんよりとした日は、なにをしてもあまりはかどらないように思う。ぼくはCDを見渡す。・・・次にレコードをあさる。KISSの『I WAS MADE FOR LOVIN’YOU』に針を落とす。ボリュームは小さく。しばらくレコードを聴いてぼんやりしていた。そのうち、炊飯器のスイッチが入る音がカチッと聞こえた。ぼくはさっきの夢を思い出した。夢の中で人が突然入れ替わっていたり、特に普段気にも留めていない人が出演したりすることはよくあることだ。(ぼくだけか?)でも夢樹がかあさんに逢わせてくれてから、かあさんの夢は結構頻繁にみるようになった。ジュリアさんの笑顔もやさしかった・・・。 「んーーー。」 ぼっちゃまのお目覚めか。ぼくはじゃがいもと玉ネギとカットわかめで味噌汁を作った。ご飯も炊き上がった。見ると、カオルはベッドの上に座って首を左右に曲げていた。 「カオル、おはよう。」 眠そうに目をこすっている。コドモみたいだ。ぼくはやかんにお湯を沸かす。 「じゅん。」 「なに?」 「ジュリアさんの夢みちゃった。」 オレも、と言いそうになったけれど言えなかった。 「たのしい夢?」 「ジュリアさんと弟さんがオレの部屋に来て、クマみたいなでかいネコを置いていった。」 「なんだそれ。」 らんまるがベッドに前足をかける。 「らんまる、おはよ。愛してるから足をどけてくれる?じゅん、何時?」 「八時十分。」 「いい匂い。」 「ご飯炊き立てだよ。」 カオルはバスルームへ、そしてらんまるもついて行く。ぼくはテーブルに納豆と海苔を出した。カオルがなかなか出てきそうもないので、先に自分のご飯と味噌汁をよそった。緑茶を淹れる。椅子に座る。カオルが出てきた。 「ご飯と味噌汁、セルフサービスね。」 「あ、味噌汁うれしいな。じゅんが作ったの?あ、じゃがいもだ。」 カオルが向かい側に座る。満面の笑み。 「どうしたの?ハイだね。」 「じゅんの味噌汁と炊き立てご飯があって、ジュリアさんの笑顔が頭の隅に残ってる。」 「後者の影響の方が強そうだね。」 「いっただっきまーす。」 「どーぞ。」 カオルが左手で箸を持つから、向かい合うと鏡を見ているような状態になる。 「ねえじゅん、オレ今日銀行に行かなくちゃ。定期を解約して普通口座に入れるの。そうすればATMでいつでも下ろせるから。」 「そう。じゃあらんまるの散歩ついでに・・・って言いたいけど雨だな。」 「いいよ、ひとりで行ってくるから。」 カオルが出掛けた後、原稿の清書をした。らんまるはぼくの足元でおとなしく横になっている。 つくづく思うのだが、ぼくは要領が良くない。というより、悪い。いや、要領の前に、することが遅いのだ。慎重、と言えば聞こえはいいけれど。自分で認識しているくらいだから、人から見ればそれは確実なことなのだろう。カオルもわりとのんびり屋だから一緒にいて不自由ではないけれど、オノデラ・シェフみたいな人を見ると少々の劣等感を否めない。なぜこんなことを考えているかといえば、今朝の夢を思い出したから。原稿を書く手が動いていない。はあ。ジュリアさんは元気かなあ。金曜日に会って以来だな。・・・どうしてジュリアさんのことを考えてしまうんだろう。夢だ、夢に出てきたから・・・。 らんまるが立ち上がった。 「なに?トイレか?」 トコトコと本棚の前へ。床に鼻をつけてクンクン嗅いでいる。ぼくも椅子から立ち上がってらんまるの鼻先を見に行った。・・・あ。小皿にのせておいたネギの切れ端が落ちていた。 「夢樹、いるの?」 ぼくはネギを拾って小皿を本棚から下ろした。ネギをよく見ると、ネズミがかじったような小さな跡があった。食べてみたものの、どうやらお気に召さなかったらしい。らんまるがぼくのそばでしっぽを振っている。 「よく見つけたね。」 頭をなでる。夢樹が夜行性ではないらしいことはわかってきた。 気を取り直して机に向かう。清書するだけだから気は楽だ。その時、ノックが。 「じゅん、入るよ。」 カオルだ。 「ただいま。」 「おかえり。」 「ダメだった・・・。」 「銀行が?」 「用紙に記入して・・・それはいいんだ。でも窓口に行こうとすると全身の血が引いてくような感じになって動悸がして手足が震えて、すごく怖い。だからしばらくおさまるのを待ってみたり、椅子に座ってみたり。でもどうしても窓口に行けなくて、結局ダメだった・・・。」 「頓服は呑んだの?」 「呑んだ。でもダメだったの。まだ少しドキドキしてる。」 「銀行に行くのは水曜日以降にしようよ、医者で薬を違うのにしてもらってから。」 「うん・・・。」 カオルは胸を押さえた。 「平気か?」 「ひとりでいたくない。じゅん、ベッド借りていい?」 「いいよ。」 カオルがベッドに座り込むと、らんまるが彼の膝に鼻を近づけた。 「らんまる、心配してくれてんの?」 カオルはしばらくらんまるを抱きしめていたが、そのうちベッドに横になり目を閉じた。 六月二十三日(火) 昨夜もカオルはぼくの部屋に泊まった。今日は雨は降っていない。雲は相変わらず空一面に広がってはいる。ぼくは出来上がった原稿を封筒に入れた。七時にカオルを起こしてみた。 「カオル、起きて。らんまるのゴハンだよ。あと四回しか見られないよ。」 ぼくはカオルの華奢な腕をひっぱって上体を起こした。ほのかにタバコの匂いがする。カオルは大きなあくびをして、伸びをした。ぼくがドッグフードを量っていると、横に来てしゃがみこんだ。カオルがお手と待てをさせる。らんまるはフードをじっと見つめて待っている。 「よし。・・・おまえはいいヤツだなあ。」 そう言ってカオルは自分もらんまると一緒に食べそうな程近づいて見ている。 「らんまる、らんまる、らーんまるー。」 変な歌を作って歌っている。無邪気。どうして彼があんな病気にならなくてはならないんだろう。神様は彼になにを試しているのだろう。世の中にはきっと数えきれない程の腑に落ちない病気の人がいるのだろう。 「おいしかった?らんまる、おなかいっぱいになったの?」 「なったよ、きっと。だから顔洗ってきたら?」 「そうか。」 彼は素直にバスルームへ行った。ぼくはらんまるの器を洗ってから、冷凍庫から出した食パンをトーストし、カップスープを作った。カオルが出てきた。 「カオル、パンにつけたいモノ、適当に出して。」 「了解。」 テーブルの上が寂しかったので、たまごを焼く。 「カオル、先に食べてていいよ。トーストは熱いうちが最高。」 「うん。でも待ってる。」 「すぐ焼けるから。たまごは塩?」 「醤油。」 「半熟ね。出来ましたー。」 カオルが皿を出してきた。缶のウーロン茶をグラスに注ぐ。 「いい感じの半熟だー。立花シェフ、うまいねえ。」 「じゃあ明日から目玉焼き屋でも始めよう。詳細はあとにして、食べよう。」 「いっただっきまーす。」 カオルはトーストに左手でバターをつけた。 「じゅん、今日新宿行くの?」 「考え中。コンビニのファックスで済ませようかとも思うけど、原稿料を受け取りに行かないとね。・・・おまえ、今日は調子どう?」 「軽いめまいは慢性化してるけど、特に苦しくはないよ。新宿行ってきていいよ、らんまると近所を散歩するから。雨、平気でしょ?」 「今日は降らないみたいだね。」 カオルはあと半分のトーストにマーマレードをのせている。 「おまえと食事をしてると平和を感じるよ。ああ、やっぱり新宿行くのやめた。らんまると散歩する。」 「仕事よりらんまる?」 「仕事は済んでるんだからいいの。せっかく雨がやんでるんだもん、らんまるは明日までしかいないし。」 「じゃあコンビニ経由で散歩ね。」 車の来ない裏通りでは、カオルとぼくがらんまるをはさんで歩く。 「じゅん、どこのコンビニからファックスするの?」 「どこでもいいよ。おまえも買うものあるんだろ?」 「うん。たまには変わったトコに行きたいな。売ってるものが違うからおもしろい。」 「あの八百屋の近くの店に行こう。カオル、絵のほうはどう?」 「うん。下書きはだいたい終わった。」 「たのしみにしてるからさ。また時々覗きに行かせてもらうけど。」 「午後コーヒー淹れるよ。」 「やった。」 しばらく行くと、コンビニに着いた。カオルも今のところ大丈夫そうだ。らんまるを公衆電話のポールにつないでおく。店に入る。カオルはレトルト食品を見ている。ぼくは編集部にファックスを送ってから、牛乳とパンとヨーグルトなどを持ってレジへ。何気なく外を見た。あれ、らんまるが・・・。 「カオル!らんまるが!」 中学生くらいの男の子ふたりがらんまるを引っぱって連れて行こうとするのが見えた。らんまるが吠える。ぼくは店を飛び出した。 「じゅん!」 カオルも追いかけてくる。男の子達は100メートルくらい先にいたが、らんまるが抵抗しているので思うように逃げられない。ぼくが追いつきそうなのを感じて、らんまるのリードを離して全速で逃げていった。らんまるはぼくの方へ走ってきた。抱きとめる。 「よーし、いいコだね。怖くなかったか?」 「じゅん、・・・よかった。」 カオルが追いついてきて言った。 「犬どろぼうっているんだね。」 「らんまるはいい犬だからなあ。もっと気をつけてやればよかった。・・・カオル?」 「あ・・・。」 その場にしゃがみこんだ。 「どうしたの、発作か?」 カオルはデイバッグの中から薬を取り出した。震える手で口に入れる。 「落ち着いて。オレがいるから。」 「じゅん、怖い、死ぬかもしれない。苦しい。」 「大丈夫だ、今薬が効いてくるから!ゆっくり息を吸って、もう少しの辛抱だよ!」 カオルの手を握り締める。背中をさする。らんまるがカオルの手をなめている。 「じゅん、どうしよう、苦しい。気が狂うかも。」 「大丈夫、大丈夫だから!すぐ良くなる!」 カオルはしばらく青ざめた顔で苦しそうにぼくの手を握り返していたが、やがてその力が弱まった。ゆっくりと何度も深呼吸をした。 「ふうっ。きつかった・・・。」 弱々しい声でカオルは言った。 「まだ心臓が。・・・そう、前にもこういうのがあった。発作になると心臓がドキドキするんだけど、その逆に、心臓がドキドキしてると発作を誘発しちゃうんだ。」
by whitesnake-7
| 2007-11-26 07:07
| 31.~35.
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