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25.

   六月七日(日)

 日曜日か。まーちんはまだ寝ているだろうか。あとで電話しよう。原稿を書いていたが、昨日の出来事が頭の中をめぐっていてうまくいかない。もう八時半。原稿はあきらめよう。冷凍庫からご飯の残りを出してレンジでチンする。生たまごと納豆と海苔で簡単に朝食としよう。
 十時にまーちんに電話した。昨日行けなかった理由を説明した。まーちんはたった今カオルに電話したけれど留守電だったよ、と。心配だからカオルのことたのむね、とぼくに言った。ライブの方は大成功だったらしい。よかった。おめでとうを言って受話器を置いた。
 カオルがこんな時間に留守?ぼくは三階へ行き、カオルのドアをノックする。
「カオル、起きてる?・・・カオル?」
「あいてます。」
いるじゃないか。ぼくは部屋に入る。クラプトンの曲が流れている。『TEARS IN HEAVEN』だ。カオルは布団もかけずにベッドにうつ伏せになっていた。
「おまえ、風邪ひくぞ。」
「うん。」
「調子はどう?」
「・・・うん。」
うん、じゃあわからないじゃないか。ぼくもベッドに腰掛ける。しばらくぼんやりとクラプトンを聴いていた。
「まーちんがおまえに電話したって言ってたよ。」
「誰とも話したくなかったの。」
「こんな曲聴いてるとよけいにしんみりしない?」
カオルはむっくりと起き上がった。
「じゅん、ジュリアさんどう思ってると思う?」
「どうって、・・・特にどうっていうこともないんじゃない?理由さえ説明すれば。」
「失礼なヤツだと思ってない?」
「おまえがあんな死にそうだったのに誰も文句なんか言わないよ。」
「だってもう死にそうに見えないでしょ?」
「・・・今は見えなくたって。まーちんだって心配してたよ。怒ってなかったよ。」
「まーちんは親友だもん。」
「ジュリアさんだって友達だろ?」
カオルはベッドから降りてグラスに水を汲み、飲んだ。ぼくは絵の前へ行く。
「なあカオル、ジュリアさんにこの絵、見せようよ。」
「どうやって?」
「来てもらうか持って行くか。持って行くにはちょっとデカイな。でもあの人に見せたいよ、これ。」
カオルもぼくの横に来た。
「うん、いつかね。」
穏やかな絵だ。
「今日、E-CAFEに行く気はある?」
「じゅん、ひとりで行っていいよ。オレはいい。」
「バイト、行けるの?」
「ちょっとめまいはするけど、まあなんとか。」
「気を付けろよ。ついていこうか?」
「大丈夫。・・・と思う。」
「たよりないなあ。」
「じゅん、あの人のところへ行ったらさ、豆買ってきてくれない?」
「いいよ。おまえ、ちゃんとメシ食えよ。」
「うん。」
ドアを閉めて階段を下りると、ぼくの部屋の前に宅配の人が立っていた。
「立花さんですか?」
「あ、そうです。」
「お荷物でーす。」
「どうも。」
届いた荷物はおやじのパソコンだった。

 スクーターでE-CAFEに来たのは初めてだ。
「いらっしゃいませ。あ、じゅんくん。」
「こんにちは。混んでますね。」
「カウンター席でよろしいかしら。」
「はい。」
ジュリアさんは店の中を小走りにまわっていた。しばらくすると戻ってきた。
「今日はカオルくんはいらっしゃらないの?」
「ええ、あの・・・昨日は本当に失礼しました。」
「気にしないで。私たちならとても楽しかったから。あのバンドの名前、じゅんくんに付けてもらったって言ってたわ。すごく盛り上がっちゃった。見せられないくらい。」
「そうですか、よかった。実は昨日電車の中で・・・。」
チリン、とベルの音。
「いらっしゃいませ。・・・じゅんくん、ごめんなさいね、ちょっと。」
「あ、どうぞ。」
彼女はぼくの前に水のグラスを置くと、今来たお客さんの応対に行った。オノデラ・シェフは黙々となにかを刻んでいるようだ。相変わらず長い髪を後ろにピシッとまとめている。ジュリアさんが皿を持って戻ってきた。シェフの横で伝票を書いている。シェフが覗き込む。
「池山さんたちがランチふたつと・・・モカでしょ、杉本さんたちは三つ。それにブレンド。」
本当によく名前を覚えているのだなあと感心する。
「あの、今日のケーキはなんですか?」
「今日はガトーショコラとオレンジのムースよ。」
「ジュリアさんはどっちを・・・?」
シェフに聞こえないように訊いた。彼女は口の動きで“オレンジ”と。
「じゃあオレンジのムースと・・・マンデリンをください。」
「かしこまりました。」
彼女は伝票を書いて、スープを用意し、運んで行った。シェフがサラダを盛り付けている。ふたりを見ていると感心するし、飽きない。ジュリアさんは戻ってきてすぐにサラダを運び、コーヒーカップを持って戻ってきた。
「香奈ちゃんがブレンド追加。・・・じゅんくん、もう少し待ってね。」
「ぼくはヒマなんでいつでもいいですよ。」
でも彼女はちゃんとお客さんの順番を守っているのがわかる。豆を挽いて、ドリップし始める。
「それであの、昨日なんですけど、カオルがちょっと発作を起こしまして。」
「発作?」
「明日ちゃんと医者で訊いてこようと思うんですけど、パニックなんとかっていう・・・。」
「パニック障害のことかしら。」
「ご存知なんですか?」
「純の、ええ、弟の彼女がそうだったわ。すごく苦しいんですって。」
「それは治るんですか?」
彼女はぼくの前に淹れたてのコーヒーを置いた。
「彼女は薬で良くなったみたいだったけど・・・。」
冷蔵庫から冷えた皿とケーキを出す。
「じゃあ効く薬があるってことですね。」
「そうよね。」
ぼくの前にオレンジ色のまるいムースが置かれた。
「どうぞ。それでカオルくんはどうしてるの?」
次のコーヒーを淹れ始める。
「落ち込んでます。あなたとの約束が果たせなかったのと町矢のデビューを見られなかったのとで、ダブルパンチって感じ。」
「ねえ、私のことだったら本当に気にしないでって言ってね。それよりカオルくんの方が心配だわ。」
「今日は大丈夫みたいです。バイトにも行けそうだし。」
「そう。」
いつも笑顔しか見たことのない彼女の表情が曇っていた。

 日曜日にスーパーに来ると、最低一回は誰かにタックルされる。ぶつかってもあたりまえだと思っているらしく、あやまる気配もない。どうでもいいけど。(日曜に来たオレが悪いんだ、と思うことにしている。)出不精なので、たまに出掛けたときに食糧を買いだめることになる。今日みたいにスクーターで来ているときは特に買い時である。
 アパートに戻ると、二時少し前だった。手をしつこく洗って、買ってきたサンドイッチを食べながら、冷蔵庫にモノを詰め込む。そうだ、留守電を解除していなかった。
『用件は、一件です。』
誰だ?
『じゅん、どうしよう、電車に乗れない。』
カオルだ。電車に乗れない?それだけじゃわからないじゃないか。どうすればいいんだ。もしかして帰ってきているかもしれない。ぼくは買ってきたコーヒー豆を持って三階へ行ってみた。いないらしい。コーヒーはドアのノブに下げておいて二階へ戻る。ふと見ると、グラスに挿した夢の樹に根が出ていた。短くて白い根だ。水を取り替えておこう。そしてまた窓辺へ置く。すると電話が鳴った。あわてて受話器を取る。
「立花です。」
『じゅん?』
「カオル、おまえどこにいるんだよ。」
『八王子駅。』
「大丈夫か?また発作になったの?」
『それが・・・電車に乗ると動悸がして、ドアが閉まる前に降りちゃうの。もう三回もその繰り返しで・・・苦しい。』
「いいから帰ってこい。今日はオレが行ってやるよ。明日医者へ行くまでのガマンだ。」
『いいの?』
声に元気がない。
「今からすぐ行くから。おまえ、タクシーで帰ってこいよ。チャリンコはダメだぞ。」
受話器を置くと、残りのサンドイッチを口に詰め込んで部屋を出た。スクーターで駅へ向かう。
by whitesnake-7 | 2007-12-06 07:07 | 21.~25.
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