六月七日(日)
日曜日か。まーちんはまだ寝ているだろうか。あとで電話しよう。原稿を書いていたが、昨日の出来事が頭の中をめぐっていてうまくいかない。もう八時半。原稿はあきらめよう。冷凍庫からご飯の残りを出してレンジでチンする。生たまごと納豆と海苔で簡単に朝食としよう。 十時にまーちんに電話した。昨日行けなかった理由を説明した。まーちんはたった今カオルに電話したけれど留守電だったよ、と。心配だからカオルのことたのむね、とぼくに言った。ライブの方は大成功だったらしい。よかった。おめでとうを言って受話器を置いた。 カオルがこんな時間に留守?ぼくは三階へ行き、カオルのドアをノックする。 「カオル、起きてる?・・・カオル?」 「あいてます。」 いるじゃないか。ぼくは部屋に入る。クラプトンの曲が流れている。『TEARS IN HEAVEN』だ。カオルは布団もかけずにベッドにうつ伏せになっていた。 「おまえ、風邪ひくぞ。」 「うん。」 「調子はどう?」 「・・・うん。」 うん、じゃあわからないじゃないか。ぼくもベッドに腰掛ける。しばらくぼんやりとクラプトンを聴いていた。 「まーちんがおまえに電話したって言ってたよ。」 「誰とも話したくなかったの。」 「こんな曲聴いてるとよけいにしんみりしない?」 カオルはむっくりと起き上がった。 「じゅん、ジュリアさんどう思ってると思う?」 「どうって、・・・特にどうっていうこともないんじゃない?理由さえ説明すれば。」 「失礼なヤツだと思ってない?」 「おまえがあんな死にそうだったのに誰も文句なんか言わないよ。」 「だってもう死にそうに見えないでしょ?」 「・・・今は見えなくたって。まーちんだって心配してたよ。怒ってなかったよ。」 「まーちんは親友だもん。」 「ジュリアさんだって友達だろ?」 カオルはベッドから降りてグラスに水を汲み、飲んだ。ぼくは絵の前へ行く。 「なあカオル、ジュリアさんにこの絵、見せようよ。」 「どうやって?」 「来てもらうか持って行くか。持って行くにはちょっとデカイな。でもあの人に見せたいよ、これ。」 カオルもぼくの横に来た。 「うん、いつかね。」 穏やかな絵だ。 「今日、E-CAFEに行く気はある?」 「じゅん、ひとりで行っていいよ。オレはいい。」 「バイト、行けるの?」 「ちょっとめまいはするけど、まあなんとか。」 「気を付けろよ。ついていこうか?」 「大丈夫。・・・と思う。」 「たよりないなあ。」 「じゅん、あの人のところへ行ったらさ、豆買ってきてくれない?」 「いいよ。おまえ、ちゃんとメシ食えよ。」 「うん。」 ドアを閉めて階段を下りると、ぼくの部屋の前に宅配の人が立っていた。 「立花さんですか?」 「あ、そうです。」 「お荷物でーす。」 「どうも。」 届いた荷物はおやじのパソコンだった。 スクーターでE-CAFEに来たのは初めてだ。 「いらっしゃいませ。あ、じゅんくん。」 「こんにちは。混んでますね。」 「カウンター席でよろしいかしら。」 「はい。」 ジュリアさんは店の中を小走りにまわっていた。しばらくすると戻ってきた。 「今日はカオルくんはいらっしゃらないの?」 「ええ、あの・・・昨日は本当に失礼しました。」 「気にしないで。私たちならとても楽しかったから。あのバンドの名前、じゅんくんに付けてもらったって言ってたわ。すごく盛り上がっちゃった。見せられないくらい。」 「そうですか、よかった。実は昨日電車の中で・・・。」 チリン、とベルの音。 「いらっしゃいませ。・・・じゅんくん、ごめんなさいね、ちょっと。」 「あ、どうぞ。」 彼女はぼくの前に水のグラスを置くと、今来たお客さんの応対に行った。オノデラ・シェフは黙々となにかを刻んでいるようだ。相変わらず長い髪を後ろにピシッとまとめている。ジュリアさんが皿を持って戻ってきた。シェフの横で伝票を書いている。シェフが覗き込む。 「池山さんたちがランチふたつと・・・モカでしょ、杉本さんたちは三つ。それにブレンド。」 本当によく名前を覚えているのだなあと感心する。 「あの、今日のケーキはなんですか?」 「今日はガトーショコラとオレンジのムースよ。」 「ジュリアさんはどっちを・・・?」 シェフに聞こえないように訊いた。彼女は口の動きで“オレンジ”と。 「じゃあオレンジのムースと・・・マンデリンをください。」 「かしこまりました。」 彼女は伝票を書いて、スープを用意し、運んで行った。シェフがサラダを盛り付けている。ふたりを見ていると感心するし、飽きない。ジュリアさんは戻ってきてすぐにサラダを運び、コーヒーカップを持って戻ってきた。 「香奈ちゃんがブレンド追加。・・・じゅんくん、もう少し待ってね。」 「ぼくはヒマなんでいつでもいいですよ。」 でも彼女はちゃんとお客さんの順番を守っているのがわかる。豆を挽いて、ドリップし始める。 「それであの、昨日なんですけど、カオルがちょっと発作を起こしまして。」 「発作?」 「明日ちゃんと医者で訊いてこようと思うんですけど、パニックなんとかっていう・・・。」 「パニック障害のことかしら。」 「ご存知なんですか?」 「純の、ええ、弟の彼女がそうだったわ。すごく苦しいんですって。」 「それは治るんですか?」 彼女はぼくの前に淹れたてのコーヒーを置いた。 「彼女は薬で良くなったみたいだったけど・・・。」 冷蔵庫から冷えた皿とケーキを出す。 「じゃあ効く薬があるってことですね。」 「そうよね。」 ぼくの前にオレンジ色のまるいムースが置かれた。 「どうぞ。それでカオルくんはどうしてるの?」 次のコーヒーを淹れ始める。 「落ち込んでます。あなたとの約束が果たせなかったのと町矢のデビューを見られなかったのとで、ダブルパンチって感じ。」 「ねえ、私のことだったら本当に気にしないでって言ってね。それよりカオルくんの方が心配だわ。」 「今日は大丈夫みたいです。バイトにも行けそうだし。」 「そう。」 いつも笑顔しか見たことのない彼女の表情が曇っていた。 日曜日にスーパーに来ると、最低一回は誰かにタックルされる。ぶつかってもあたりまえだと思っているらしく、あやまる気配もない。どうでもいいけど。(日曜に来たオレが悪いんだ、と思うことにしている。)出不精なので、たまに出掛けたときに食糧を買いだめることになる。今日みたいにスクーターで来ているときは特に買い時である。 アパートに戻ると、二時少し前だった。手をしつこく洗って、買ってきたサンドイッチを食べながら、冷蔵庫にモノを詰め込む。そうだ、留守電を解除していなかった。 『用件は、一件です。』 誰だ? 『じゅん、どうしよう、電車に乗れない。』 カオルだ。電車に乗れない?それだけじゃわからないじゃないか。どうすればいいんだ。もしかして帰ってきているかもしれない。ぼくは買ってきたコーヒー豆を持って三階へ行ってみた。いないらしい。コーヒーはドアのノブに下げておいて二階へ戻る。ふと見ると、グラスに挿した夢の樹に根が出ていた。短くて白い根だ。水を取り替えておこう。そしてまた窓辺へ置く。すると電話が鳴った。あわてて受話器を取る。 「立花です。」 『じゅん?』 「カオル、おまえどこにいるんだよ。」 『八王子駅。』 「大丈夫か?また発作になったの?」 『それが・・・電車に乗ると動悸がして、ドアが閉まる前に降りちゃうの。もう三回もその繰り返しで・・・苦しい。』 「いいから帰ってこい。今日はオレが行ってやるよ。明日医者へ行くまでのガマンだ。」 『いいの?』 声に元気がない。 「今からすぐ行くから。おまえ、タクシーで帰ってこいよ。チャリンコはダメだぞ。」 受話器を置くと、残りのサンドイッチを口に詰め込んで部屋を出た。スクーターで駅へ向かう。
by whitesnake-7
| 2007-12-06 07:07
| 21.~25.
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