20.

   六月二日(火)

 朝の風にカーテンが揺れている。昨日取ってきた枝の葉が朝日にきらめいて・・・。
「夢樹!」
グラスの横に夢樹が立っていた。
「じゅん、ありがとう。これがないとダメなんだ。」
うれしそうにそう言うと、葉を一枚取ると端からモグモグと食べ始めた。
「このりんご、くれるの?」
「りんごも食べられるのか。」
りんごは彼の背の高さ程あった。
「それ、小さく切ってあげるよ。」
ぼくは自分の発した声で目が覚めた。一体どうなっているんだろう。どこまでが夢でなにが現実なのか、あいつの夢をみるとわけがわからなくなる。起き上がって窓辺へ。グラスに挿した枝はそこにある。りんごも。ぼくは夢遊病なのか?でもちょっとおもしろくなってきた。ぼくが眠っている間に小さな少年が現れて葉をかじっていったと思うと、神秘的だ。ぼくはあの本を見た。昨日は確かにくすんで見えたあの表紙が今日は鮮やかだった。色が変化するその表紙に、もう驚かなくなっていた。本の横の時計を見る。え?もう七時半?こんな時間に起きたのは何年ぶりだろう。カオルを起こす時間に遅れなくてよかった。
 洗濯を終えて、八時にカオルに電話する。すぐに返事のベルが鳴る。洗濯物を干してからカオルの部屋へ行く。
「カオル、入るよ。」
「どーぞどーぞ。」
カオルはひげを剃っていた。
「そんな童顔にひげが生えるのが信じられないよ。」
「童顔でも一応オトナなの。あ、昨日さんきゅー。りんごとかいろいろ。昨日はバイト平気だったの。もうあんまり休めなくなりそうなんだよ、杢代さんっていう奥さんがやめちゃうんだ。だから後藤くんがたよりなの。後藤くんが学校から帰ってくるのが待ち遠しくて。」
「杢代さんの後釜は募集しないの?」
「してるんだけど、まだ。決まるまでは店長と奥さんとオレだけでなんとかしなくちゃね。」
「無理すんなよ。そうだ、明日E-CAFEに行こう。あさっては店が休みだろうから。」
「そっか、もう木曜日がくるのか。早いなー。」
「あれ、おまえもう行くの?」
「うん。混んでるから早い方がいいって。」
ふたりで部屋を出る。昨日と同じだ。
「じゅん、今日新宿でしょ?」
「そう。原稿無事に仕上がってよかったよ。」
「だから言ったでしょ、じゅんは大丈夫だって。」

 編集部の廊下で偶然話し声を聞いた。
「笹山さん、いつまであのぼうやを雇っておくのよ。」
「いつまでって?」
「井田さんが急にやめちゃったからとりあえず書かせてみただけなんでしょ?」
「とりあえずってわけじゃないさ。それに、わりと人気があるんだよ、あの子のページ。」
「枠を拡大したっていうじゃない。ぼくのページ増やして欲しいなあ。」
「無理言わないでよ、上からの指示なんだからさあ。」
「ぼうやにいくら払ってんの?もったいないよ。」
「でもあれが好きな人が結構いるんだって。本当よ。たいした文章じゃないかもしれないけどさ、今の人はああいうのがいいのかもね。ああ、もうすぐ彼くるからさ、変な話しないでくれよ。」
「上の人もなに考えてるんだか。」

 電車のドアの横に立って、流れていく景色をぼんやりと見ていた。木々の緑がもう色濃くなっている。六月か。もうすぐ梅雨。雨の街もきらいじゃないよ、ぼくは。他の事を考えようとしてみても、やっぱりダメだった。笹山氏から受け取った読者からの手紙も今は読みたくない。ぼくの文章が子供じみていることは自分でもよくわかっているし、読者からもくだらないとかそんなことはしょっちゅう言われて、最初は落ち込んでいたけどもう慣れたつもりだった。だけど、笹山氏と話していたのが落合さんだったなんて・・・。そもそもぼくがこの出版社を選んだのが、落合さんの文章が載っている週刊誌を出しているからという理由だった。落合さんにあこがれていたのだ。ぼくの文章は子供じみているかもしれない。それは落合さんのせいじゃないさ。だけど、ショックだった。ふたりの話を聞かなかったふりをするのが精一杯だった。
 八王子駅に着いてバス停まで行ったが、バスに乗るのをやめて歩き始めた。平日でも人は結構いるものだ。立ち並ぶ店を見るともなく見て歩く。ショーウィンドウに映ったぼくは、もぬけのからが服を着ているようだった。店の壁に貼られた『アルバイト募集中』の紙がすこし剥がれかかってヒラヒラしている。時給九八〇円。バイトでもしようか。その方が原稿料よりもらえるというものだ。これ以上あの仕事を続けていく意味が自分にあるだろうか。ぼくを拾ってくれた笹山氏への恩返し的な気持ち?そんなに多くはないけれどファンがいるから?そんなことが頭の中をグルグル回って離れなかった。
 アパートに着いて郵便受けを見ると、まーちんから封筒が来ていた。チケットだ。そうか、ついにまーちんもプロなんだなあ。それに比べてぼくはなにをしているんだろう。・・・いや、そのことを考えるのはもうやめよう。そうだ、カオルから電話が入ってるかもしれない。ぼくは部屋へ急いだ。
『用件は、ありません。』
無表情な女性のその声が、むなしさを一層強くした。それと同時に、ぼくはジュリアさんを思い出していた。あの笑顔に会ったら、このモヤモヤした気持ちも少しはやわらぐだろう。《じゅんくんの話し方、好きよ・・・》あのときのジュリアさんの表情が浮かんだ。その声はやわらかく胸に沁みた。
 マイケル・シェンカーのCDを探していると、電話が鳴った。
「立花です。」
『じゅーん。』
「カオル、どうだった?」
『まだ途中なの、すごい混んでてさ、検査であっちこっち振り回されてる。』
「そうか。」
『頭のCT撮ったり、今なんか変な台にのっかって平衡感覚をみるとかいうのやったり。それはいいんだけどさ、じゅん、忙しい?』
「忙しくはないけど。」
『カオちゃんのお願いをきいてくれる?』
「カオちゃんのお願いか。イヤな予感がするけど。」
『今日だけオレの代わりにバイトに行ってくれない?』
「え、オレが?だってなんにもわからないよ。」
『いいの、品出しだけでも。オレ間に合いそうもないから店長に電話したんだよ、そしたら杢代さんが急用で、店長ひとりなんだって。だからどうしてもこいって言うんだよ。どうしてもって言われても無理だって言ったんだけど、誰かいないかって。』
「オレに白羽の矢が立ったワケね。」
『ダメ?疲れてるだろうと思うけど。』
「いいよ。役に立たないのを承知で店長がそう言ってるんだったら。」
『じゅんは器用だから役に立つよ。お礼はするからさ、たのむね。』
「で、何時から?」
『できれば今すぐにでも。』
「マジで?」
『あ、オレの名前呼ばれてる。行かなくちゃ。悪いけどお願い。』
「わかった。」
 ぼくはスクーターで駅へ行き、ちょうど到着した中央線に滑り込んだ。
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by whitesnake-7 | 2007-12-11 07:07 | 16.~20.
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