10.

   五月二十六日(火)

 原稿を編集部に提出してきた帰りの中央線の中で、ぼくは今朝みた夢を思い出していた。母を亡くしたあの幼い日。朝、目を覚ましても母がいないことに慣れることができなくて、毎朝早く起きてしまっては泣いて父を困らせた。今朝も夢の中の幼いぼくは、母の姿を探して泣き続けていた。どこにいるのか、一体どこに。キッチンにも、風呂場にもいない。外へ出てみても。道のむこうから、今にも手を振りながら笑顔で歩いて来そうな気配さえするのに。じゅん、待っててくれたの、ただいま、と声が聞こえるのに。小さなぼくの頭をなでて、さあ、おうちへ入ろうね、と言いそうなのに。かあさん、と声を出しそうになるところで、いつも目が覚める。

 八王子駅に着いて、改札を出てから少し立ち止まった。今日は駅までスクーターで来たので駐輪場へ行こうとしたが、駅ビルの地下へ行こうという気になった。エスカレーターで地下まで行くと、客を呼び込む声がにぎやかに聞こえてくる。目に映る惣菜、揚げ物の匂い、ざわざわとした人込みの中を通ってまっすぐパン屋へ。焼きたて、と札のついたソフトべーグルをトレーにのせる。プレーンなタイプのと、クルミが入ったもの、ニンジン入りの。クルミのやつはカオルが好きそうだな、と思ってもうふたつ取る。それに、ドライフルーツとナッツを練り込んであるコッペパン型のパンをふたつ。これもひとつはカオル用。
 パン屋を出ると、魚売り場へ行ってみた。鮭の切り身でも買ってバター焼きにしようと思ったのだが、ものすごい勢いのおばさんに押されて鮭を通り過ぎてしまい、戦意喪失して魚はあきらめた。スーパーで買うとしよう。もう一度惣菜売り場を通るとシューマイがおいしそうだったので、1パック買ってみた。温かくてずっしりと重い。こんなところで引き上げることにしよう。
 駐輪場に行き、スクーターに戦利品を載せて帰る途中でヒジカタさんがいた。スーパーの大きな袋を持っていたので、そばに止まった。
「ヒジカタさん。」
声をかけると、驚いてこっちを向いた。
「あら、じゅんくん。今帰り?」
「そうです。重そうですね。荷物だけ載せてってあげますよ。」
ヒジカタさんも乗せてあげたいところだが、原付ではそうはいかない。
「助かるわ、ありがとう。じゃあお言葉に甘えて。」
ぼくは差し出された袋を受け取った。
「ドアの前の棚の中に置いてくれればいいわ。」
「わかりました。あ、昨夜まーちんが来まして、おみやげを預かってますからあとでお渡しします。じゃあお先に。」

 アパートに着いて、ヒジカタさんの荷物を言われたところへ置き、階段をのぼる。カギをあけて部屋に入ると、いつものように留守電を解除する。
『用件は、ありません。』
荷物を置いて、手を洗う。もう三時過ぎ。カオルはバイトに行ってしまったかな。カオルに渡すものがたくさんある。ぼくは受話器を取り、彼に電話してみた。
『もしもーし。』
「お、カオルまだいるじゃん。」
『じゅん?今帰ってきたの?』
「そう。渡すものがあるから行くね。」
『うん。』
ぼくは昨日のカップとCD、まーちんからのおみやげと、さっき買ったものを全部持って三階へ行った。
「カオル、入るよー。」
「どうぞ。おかえり、あれ?じゅん、家出してきたの?」
カオルの部屋にはクラシックの曲が流れていた。
「家出?」
「そんなにいっぱい持ってさ。」
「おまえ、今日バイトは?」
「あと一時間で出掛けるよ。」
「そう。じゃあまだ大丈夫か。これ、借りてたカップ。それとCD。これはまーちんからの明太子。」
「やったー、明太子。そう、昨日留守電入ってて、聞いたよ。ライブハウスでやるんだって?すごいじゃん。」
「そう。うれしくなっちゃってさー。盛り上がりたかったんだけど、運転だから飲ませるわけにもいかないし。カオルにくれぐれもヨロシクってさ。」
「よかったよねー、やっとまーちんの実力が発揮できる場がみつかってさ。」
「今度一緒に見に行こうよ。ところでカオル、もうメシ済んだ?」
「なになに?なにかあるの?」
「たいしたものはないけどさ。」
ぼくが袋から出す前に覗きこんでいる。
「シューマイ!あー、急にシューマイ・モードになった。」
「それまではなんだったの?」
「駅で立ち食いそばにしようかと。」
「ほら、まだ温かいよ。あとはパンのおすそわけね。」
「持つべきものは友だよねー。」
「おまえ、ナッツ好きだろ?これあげる。あと、ソフトベーグルね。」
「さんきゅー。コーヒー淹れるからさ、今食べていい?」
「パンにシューマイで?」
「オレ、組み合わせにはこだわらないから。パンに明太子でも、パンに納豆でも。」
やかんに水を汲みながらたのしそうである。それを火に掛けると、コーヒー豆を取り出す。
「いいよ、オレもこだわらないから。」
ぼくはさっき返したカップを水で軽くすすいだ。
「ベーグルとこっちのと、どっちを食べる?」
「じゅんの食べたいほう。」
「じゃあベーグル。まな板借りるね。」
勝手知ったるカオルの部屋である。どこになにがあるか、大体わかっている。ぼくはパンナイフを出して、ベーグルを横ふたつに切る。トースターに予熱を入れる。
「ニンジンのベーグル、食べてみる?」
「食べてみようかな。」
「ナッツのやつと半分ずつ食べよう。どうせふたつに切るんだもんな。」
カオルがミルをゴリゴリさせているので、話は途中で聞こえなくなった。
「じゅん、らんまるはまーちんが来たらよろこんだ?」
「そりゃあね。二日ぶりのご主人様だもん、うれしそうだったよ。」
「そうだ、あの本少し読んだんだけどさ、犬のデリーが宝物を見つけるところ。」
「ああ、ここ掘れワンワン、みたいな感じでね。」
「らんまると一緒にいたとき、そういうことなかった?」
「そういうことって?」
「ここになにかあるよって言ってるみたいな。」
「本気で言ってるの?」
ぼくは半分に切ったベーグルをトースターに入れた。ふたつしか入らない。
「なんか、本当にありそうな話じゃん。よく思い出してよ。」
カオルはペーパーに折り目をつけて、挽いた粉を入れている。
「よくって言ったって、おまえも一緒にいただろ?」
「そう、一緒にいたときのことはよく思い出してみたの。でもさ、おとといはE-CAFEから帰るとき別々だったでしょ?そのときなにかなかった?」
「うーん・・・。」
確かにあのときはカオルはバイトへ行って、ぼくはらんまると普通に店から歩いて・・・。富士森公園の坂を下って行った。
「そういえば。」
「思い出した?」
「あの、彫刻がある広場あるじゃん。」
「うんうん。」
カオルはペーパーの中にお湯を慎重に注ぎながら、興味津々だ。
「あそこのツツジのところで立ち止まって、しばらく動かなかったかなあ。」
「それだよ。宝物があるんだよ、そこに。」
まるで子供みたいだ。本気らしい。
「でも、ここ掘れって感じじゃなかったけどなあ。」
「今度行こうよ、そこ。案内してよ。」
「掘るつもり?」
トースターの中を覗くと、ベーグルの表面がいいカンジのキツネ色になっていた。皿に取り出して、残りのふたつを入れる。
「カオル、なにつける?バター?」
「うん。」
サーバーの中のコーヒーが、もう少しでふたり分になる。ぼくは冷蔵庫からバターを出す。シューマイを皿に出して、からしを置く。
「うーん、これだと野菜不足だな。ポテトサラダでも買ってくればよかった。」
カオルはコーヒーをカップに注いでから、
「待って、トマトがあるから。」
冷蔵庫を開けて首をつっこんだ。
「あったあった。おおっ、レタスもあるじゃん。いつのだろう。」
「大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、見て、新鮮そうでしょ?フレーッシュー。」
カオルはトマトを洗って左手に包丁を持ち、不器用そうにいくつかに切り分けた。レタスをちぎる。ぼくはそれをのせる皿を出す。
「ほら、いい色合いじゃん。オノデラ・シェフには負けるけど。」
「うん、いいね。」
カオルがドレッシングを出すあいだに、フォークをふたつ出す。あとのベーグルも焼けた。これでOK。
「じゅんのおかげで立ち食いそばから救われました。ではいただきます。」
「いただきます。」
カオルはドレッシングの容器を振っている。ぼくはコーヒーを一口すする。
「ホントおいしいよ、このコーヒー。」
「だよね。オレが淹れたからKブレンドだよ。ベーグルもっちりしてうまい。ナッツ大好き。」
「そうだ、今日編集部へ行ったらさ、原稿増やしてくれって言われた。」
「え、じゅんのコーナー拡大すんの?」
「そういうことみたい。」
「すごいじゃん、おめでと。今度ケーキをおごるよ。」
「E-CAFEのだろ?」
「わかっちゃった?」
「わかるよ、おまえは単純なんだから。早く食べないと遅れますよ、ぼっちゃま。」
「立ち食いそばの時間を計算してあったから平気でございますよ。」
「ならいいけど。」
「ねえ、四時前だっていうのに夕飯を食べる男たちってどう思う?」
「四時前だっていうのに油絵の具のにおいの充満した部屋でひっそりと向かい合って食べる男たち、でしょ?」
「これがニンジンベーグル?普通の味だね。」
「ニンジンの栄養が摂れるのかどうかは期待できないね。」
「少しは摂れるでしょ。繊維質も。」
「カオル、夜は食事できるんだろ?まともなモノ食べろよ。栄養のありそうなモノ。」
「じゅんもね。原稿も増えるんだし。」
「それ、ちょっと心配なんだよなあ。」
「なにが?」
「そんなに書けるのかなって。」
「じゅんなら大丈夫だよ、心配ないって。」
トマトを刺したフォークを振りながら言われても説得力はないが。
「さんきゅー。根拠のない励ましでも少しうれしいよ。」
「根拠がないだなんて。オレの言ったことに今までまちがいがあった?」
「なかったっけ?」
「あったか。でもじゅんは大丈夫だよ、きっと。そうだ、あれ聴いたよ、レインボーの。なかなかよかった。今日のも聴いたよ、録音して、起きてから聴いた。」
「録音してまで聴かなくていいのに。」
「来週アース・ウィンド&ファイアーを忘れないでよ。」
「覚えてるよ、ちゃんと。今度ビージーズも考えておこうかな。」
「マジで?うれしいなー。ねえ、このシューマイどこの?」
「駅ビルの地下。」
「でっかいね。うまい。オレも今度うまいもの探そうっと。」
「たまに行くとおもしろいよね。もうひとつベーグル焼こうか。」
「うん。」
ぼくはクルミのベーグルをもうひとつ出して、トースターのつまみを回しておいてからパンナイフを持つ。カオルが立ち上がってそばに来る。切ったベーグルをトースターに入れる。
「そうだ、絵を見ていい?」
「どうぞ。」
ぼくは窓の近くにある絵の前に行く。見た途端に、今までなかったものが目に飛び込んできた。漆喰の壁の前を歩いている黒い物体。
「カオル。」
「なに?」
「これ、らんまるじゃん。」
「ばれたか。ちょっとアクセントにね。」
相当らんまるを気に入ったらしい。
「その犬を描いたら、すごくいい感じになったと思ってるの。」
「うん、いいよ。すごく引き締まった感じがするし、かわいいよ。」
「よかった。」
「空の色も少し変わった?」
「変えたんだけど、まだ気に入らないんだ。あ、じゅん、ベーグルが。」
おっと、焼いているのを忘れるところだった。ふたりで駆け寄る。トースターを開けると、ちょうどいい加減だった。
「間に合ってよかった。あちちち、はい、カオル。」
「さんきゅー。」
「やっぱトースターから出してすぐ食べるのが一番うまいね。一分でも置くともう違うもん。」
「じゅんってパン大好き人間だよね。じゅんが選ぶヤツっていつもおいしいもん。」
「そういえばまーちんがパン工場でバイトしてたときはよく差し入れてもらったなあ。」
「ああ、昭島の。パンの仕分け、やってたっけねえ。」
「どうしてあんな方まで行ってたんだっけ?あ、桂子ちゃんの家があっちだったんだ。」
桂子ちゃんというのは、まーちんが高校二年のとき付き合っていたコである。
「夏休みのあいだ一緒にバイトしてたんだっけ。」
「あの頃はカオルだって彼女がいたじゃん。」
カオルの彼女はクラスで一番おとなしそうな女の子だった。なのに彼女のほうから告白してきたと言うので、みんな驚いたものだ。
「彼女って言っても、たったの二ヶ月半だよ。じゅんのほうが長続きしたよ。」
そう、ぼくにも彼女がいた。一年ちょっと付き合って、就職活動の時期になって自然消滅的に別れてしまったけれど。
「もう結婚したみたいだって、うわさに聞いたけど。」
「じゅんと結婚すればよかったのにさー。あ、でもオレが困る、かまってもらえないもん。」
「結婚しちゃうと自由に友達付き合いってできないもんかなあ。」
「結婚相手にもよるんじゃないの?ひたすら一緒にいたがる奥さんだったらさー。」
「または、こっちがひたすら一緒にいたくなるような奥さんだったりね。」
「あー、それはそれで・・・うらやましいけど。」
「そろそろ片付けないと。ごちそうさま。」
「ごちそうさま。・・・じゅん、いつもそうやるの?」
ぼくが皿に付いたからしをティッシュで拭き取るのを見ている。
「そう。川を汚さないようにね。」
「じゅんって地球にやさしい生き方だね。ちゃんとリサイクルするし。」
「地球か。地球以外の星へ引越すわけにはいかないから大事にしないとね。」
皿とカップを洗い終えると、カオルが時計を見た。
「ちょうどいい時間だ。よかった。」
「そうだ、オレ、ヒジカタさんに明太子持って行かなくちゃ。」
「そうだ、あれからまだヒジカタさんに会ってないや。じゅん、ついでに山草展のことも言っといてくれる?」
「OK。」
カオルはデイバッグを肩にかけ、カギを探している。ぼくは自分の分のパンを持って部屋を出る。
「じゃあね、帰りは気をつけろよ。」
「うん。」
ぼくが階段を下り始めると、カギを閉めたカオルも駆け下りてきた。
「おまえ、転ぶぞ。」
「平気平気。行ってきまーす。」
子供みたい。
 ぼくは自分の部屋に戻り、まーちんの明太子と山草展のハガキを持って一階へ下りる。ヒジカタさんのドアをノックする。はーい、と声が聞こえる。
「立花です。」
ドアが開く。
「ああ、じゅんくん。さっきはありがとね。とっても助かったわ。」
「どういたしまして。これ、まーちんから福岡のおみやげです。らんまるのこと、ありがとうございましたって、くれぐれもヨロシクって言ってました。」
「まあ、そんなこといいのに。いいの?いただいて。」
「どうぞ。あと、これ・・・よかったら。あの、山草展があるらしいんですけど。」
ぼくはハガキを渡した。
「まあ。いつ?」
ヒジカタさんは、ハガキを目から少し離して見ている。細かい字は見えないのだろう。
「今度の土、日です。市民センターで。ヒジカタさん、お好きだと思ったので。」
「ありがとう。花崎さんと一緒に行ってみようかしら。」
「花崎さんにも言おうと思ってるんですよ。」
「じゃあ私がお誘いしてみるわ。」
花崎さんに言う手間が省けてしまった。
「そうですか。じゃあ、ぼくはこれで。」
「わざわざありがとうね。」
「いえ。」
階段をのぼる。部屋に入ってドアを閉めたら、急に今朝の夢を思い出してしまった。キッチンにも風呂場にも、母の姿はなく、外へ出てみても・・・。あの夢をみると、ひとりでいるのが苦しくなる。カオルはいないし、まーちんに電話してみよう。受話器を取って、ケータイの番号にかける。
『ただいま、電話に出ることができません。』
単調な女の声。そうだ、まだこんな時間だもの、まーちんは仕事中だ。受話器を置く。ああ、らんまるがもう一晩いてくれたらよかったのに。音楽を聴こうとしても、きっと母への想いが強くなるばかりだろう。母の好きだった曲が、ぼくの好きな曲なのだ。ぼくは棚の奥にしまいこんであったワインを出してみる。たしかヒジカタさんが勝沼に旅行に行ったときにくれたものだ。もらったときに少し飲んだだけで、そのままである。そっと栓を開ける。フルーティーな香りがする。ワイングラスなどというものはないので、持っているグラスの中で一番繊細そうなのを奥から出して、洗剤で軽く洗って、よくすすぐ。これでよし。きれいに拭いて、ワインを注ぐ。黄色みがかった透明の液体。一口飲む。強い香りが鼻にぬける。ふう。それほど大きくないそのグラスに残ったワインを一息に飲み干す。おいしいとかおいしくないとか、そんなことはどうでもいい。カラになったグラスに、更に注ぐ。そう、母も時々お酒を飲んでいたっけ。寝る前に少しだけ。父と一緒に日本酒を飲んだり、ウィスキーに氷をたっぷり入れたものだったり、梅酒の水割り、こんな白ワイン・・・でも白ワインよりロゼの方がきれいだから好き、と言っていた。ぼくは、またカラになったグラスにワインを注ぐ。母があんなに早く逝ってしまうとわかっていたら、ぼくはもっと母と一緒にいる時間を大切にしただろう。母が作ってくれた弁当を残すこともしなかったろう。ケガをして心配させるような遊びもしなかっただろうし、もっと早く学校から帰ってきただろう。グラスはカラになり、また注ぐ。もう味はよくわからなかった。小さな子供を残して逝ってしまった若い女の気持ちは一体どんなだったのだろう。大人になった姿を一目でも見たかったに違いない。無念で心残りで心配で・・・。かあさん、もっとよく顔を見せてよ。ここに、ぼくのそばに来て。かあさん、かあさん・・・・・・。
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by whitesnake-7 | 2007-12-21 07:07 | 6.~10.
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